その小社の西側面には「紳士お手入れ口」、反対側には「淑女お手入れ口」と書かれ、その下に、それぞれ四角形の切り口があって、ピンクの布が覗いている。
ここに淑女?が手を入れると、ちょうど巨大な金精さまの頭に触れられるようになっている。自分の歳の数だけなでなですると、ご利益ありなんだと。
金精さまの左はヴェールがかかって見えない
ところが、紳士が手を入れるところは布で覆われていて、そこに何があるのか、外側からは見えない。それをいいことに、紳士とはおよそ縁もゆかりもない無頼の徒であるスネコタンパコ氏が、傍若無人に、とことんお触りしたのはいうまでもない。
昔、電車の中で、倒れた女性がいて、近くにいた男性が、しきりに「大丈夫ですか?」を連呼しつつ、その女性の身体のさまざまな部分を触りまくっていたのを思い出す。
わたしが撫でさすっていたのは、布をめくってもらうと、こんな状況。
敢えてクローズアップ写真は略す。でも、なぜ黒く塗っちゃったんだろう。昔の、いわゆるビニ本を思い出す。
それとも、陰毛のつもりだろうか。それにしても、かなりリアルにできている。触感もいいな、これ。
ここは群馬県みなかみ町猿ヶ京に鎮座する神明神社の、急こう配の参道途中にある金精堂。地元の人は「こんこんさま」と呼んでいるらしい。
関東の金精さまはそのほとんどが男根単独で祀られているが、このようにペアで祀られているのはまさに珍。
猿ヶ京の近く、国道一七号線の三国トンネル(上越国境)の上の三国峠には、御阪三社神社があって、群馬の赤城、新潟の弥彦、長野の諏訪の三社が祀られているから、諏訪信仰のオオマラさまとオオツビさまの影響でも受けたのだろうか。もっとも、この三社はいずれも金属と関係の深い神社ではある。
御阪三社神社 鳥居の脚にひびが入り周囲は立ち入り禁止
採鉱民はタタラ製鉄を出産にたとえる。
金精堂のマラとホトも、猿ヶ京一帯で、タタラ製鉄が行われていた証拠ではなかろうか。
まず猿ヶ京という地名が怪しい。「猿」が付く地名は金属を産出するケースが多い。
猿ヶ京一帯はかつて宮野と称したという。現在も小字で宮野がある。地名が猿ヶ京に変わった由来は以下の通り。
≪有名な戦国武将、上杉謙信。彼が越後から三国峠を越えてこの辺り(当時は宮野と呼ばれていました)にやって来た時のお話。どこまでも広がる大地に立ち、やはり果てなく広がる空を見、この地を治めたいという強い衝動に駆られました。
その夜、謙信は飲酒し、気持ちよく眠りについたところでなんとも奇妙な夢を見ました。
宴の席でごちそうを口に入れたとたん、前歯がいっきに8本も抜け、手の中に落ちてしまうという夢です。戦の直前にいやな夢を見たと家来に言うと、「片っ端から関八州を手中にするという、縁起の良い夢でございます」とのこと。その日はちょうど庚申の年、申の月、申の日、そしてなんと謙信の生まれ年も申年だったことから、「この地を申ヶ今日と改めるぞ」と、謙信も上機嫌。
この『申ヶ今日』が訛り、文字も変わって『猿ヶ京』と呼ばれるようになったといわれています。≫(猿ヶ京温泉旅館協同組合のWebより転載。ただし、Webで、≪庚申の年≫とあるべきを≪唐申の年≫とあるのはいただけない。)
わたし以上の、鉄面皮ともいえるほどの故事付けである。
しかし、謙信が登場するところがミソだろう。謙信もまた信玄と同様、鵜の目鷹の目金属を狙っていたに違いないからだ。
そして、陰陽五行説では、十干の庚も十二支の申も、ともに陽の金であり、猿ヶ京と金属との関係を暗示する。
わたしは、猿ヶ京とは「さびヶ郷」の転ではないかと思う。サビ→サブ→サム→サルではなかろうか。サヒ・サビとは鉄の古語である。
猿ヶ京温泉の「売り」の一つに赤谷湖がある。売りといってももちろん買い手がいなければ売買は成立しない。おそらく買い手が不在なのだろう、温泉街は閑古鳥も訪れないような有様で、崩落寸前の宿泊施設が点在する。
赤谷湖
昔、「崖っぷち犬」というのが話題になったが、ここは「崖っぷち温泉」といえそうだ。赤谷湖は赤谷川を堰き止めたダム湖である。
赤谷湖は青々としていて、ちっとも赤くない。旅館の従業員に訊いてみても、川は赤くはないという。
ところが、旅館の床の間に飾られている「赤谷川の石」はまぎれもなく赤かった。残念なことに、写真を撮るのを失念したのは、認知症の兆しでもあろうか。
それは、赤茶けた砂粒のなかに指先ほどの小石が挟まったような堆積岩であった。
この辺りの地層を猿ヶ京層群という、と上毛新聞社発行『群馬県百科事典』はいう。
≪谷川岳の南、利根郡新治村・水上町・月夜野・沼田市にかけては、かつての海底火山の噴出物であるグリーンタフ(緑色凝灰岩)を大量に含む地層が分布しているが、その上部を猿ヶ京層群という。第三紀中新世中ごろの海に堆積した地層で、赤谷川沿岸地域に広く分布し、三国峠から三国山にかけての高所にも分布する。≫
猿ヶ京層群の岩質は、下部から、後閑層・赤谷層・原層・合瀬沢層・大道層の五層に細分され、その内の合瀬沢層について、同書は≪礫岩・砂岩および凝灰層よりなる累層。砂鉄層を挟む。≫としている。
「赤谷川の石」はまさにこの砂鉄層を挟んだ合瀬沢層の石ではなかろうか。
合瀬は猿ヶ京温泉の西のみなかみ町永井にある小字であるが、永井はナカイで、ナカはヌカの転ではなかろうか。赤谷湖に西から流れ込む川に西川があり、この上流部の沢をムタコ沢という。この変な地名もヌタコ、あるいはヌカコ沢ではあるまいか。ヌカとは砂鉄を指す。永井には、赤沢があり、保戸野山も存在する。
永井と猿ヶ京に挟まれ南北に細長い大字を吹路という。これは吹く炉か。
そう考えると、西川というのも、確かに西から流れ込む川ゆえの命名かもしれないが、あるいはもともとはサイ(サヒ)川で、サイの字に西を当てたため、ニシ川になったと考えられないこともない。
一方赤谷川を北へ遡行して行くと、西から渋沢が合流し、更に北上すると、金山沢と出合う。金山沢は上流部で平標山の家付近から流れ落ちる笹穴沢に分かれる。
これらの沢名も鉄を想起させ、決定的なのは、金山沢の南西、大源太山から派生する東の尾根上に一六八四mのピーク黒金山があることだ。そしてさらに、その南東に、鷹ノ巣山があることは無視できない。もしかすると、かつてこの山の近くに、鉱山があったのではなかろうか。
大源太山は別名を河内沢ノ頭という。カワチはカヌチを連想させる。河内沢は大源太山の西から流れ落ち、新潟県南魚沼郡湯沢町元橋付近で二居川と名を変える。
この辺りを火打峠というのも興味深いが、元橋という地名にもヨダレが滴り落ちる。
埼玉県蓮田市馬込字辻谷の共同墓地にある薬師如来像を管理しているのが本橋氏であり、蓮田と岩槻の馬込に多く居住する氏である。
この氏は、戸田市にも多く、荒川沿いの笹目近くの新曽に顕著である。また戸田市の隣、鋳物の街川口にも多い。
更に、岩槻に隣接する春日部市大増新田にも多く、大増新田の西隣増冨には小字鍛冶田耕地がある。春日部に「増」の付く地名が多いのには今気づいた。
さて、話をもとに戻そう。
猿ヶ京神明神社
神明神社二の鳥居
猿ヶ京神明神社は、かつて雨宮神社と称し、宮野に鎮座した。
二の鳥居近くの説明板にはこうある。
≪昔、神明様は、雨宮大明神と称した。清和天皇の後裔、雨宮千勝は文武両道、源頼朝に重用され同僚の妬みをかい、三国峠を越え越後雨宮村に逃れる途中、潔く猿ヶ京の地で割腹した。その時連れの狛犬に手紙を託し、雨宮村の弟の市録に届けた。その後、猿ヶ京では、大疾病が流行ったので、占わせると、雨宮千勝の霊を鎮めよと出たので、天文年間外宮豊受大臣を勧請し雨宮大明神として近隣七か村の鎮守として祀った。明治四十一年に吹路諏訪社、永井十二社、三坂社を合祀し神明神社と改称した。雨宮大明神が葦毛馬から下馬する時、白胡麻の穂で目を突かれたので、猿ヶ京では、葦毛馬を飼うこと、白胡麻を植えることを禁忌としている。≫
雨宮千勝がどのような人物であるのかはさっぱり不明である。が、しかし、千勝という名は、いやがうえにも、千勝、あるいは近津、千方、血形などと記される神社を思い出させ、さらに、藤原秀郷の子だとも、孫だともいわれる藤原千方を想起させずにはおかない。
藤原千方は、天智天皇の時代に、伊勢や伊賀地方で、四鬼を使って欲しいままに悪事を働いていたとされる人物で、朝廷から派遣された紀友雄によって、三重県津市白山町を流れる雲出川の瀬戸ヶ淵で討ち取られ、その首は川を逆に流れて上流の美杉村の方へ着いた、という伝説がある。
謡曲「拾葉抄田村」には≪伊賀の国霧生(きりゅう)村三国ヶ嶽に、千方将軍の籠居の旧跡あり。谷は北面十五間、東西八間、門は北向石柱二本有り。長さ一丈、一本は折れたり。村上天皇御宇藤原千方正二位を望みしに、其甲斐なかりければ、是を逆心し、日吉の神輿を取り奉り、彼は山に取籠もる・・・云々≫とあるそうだ。
千方氏が、三重県伊賀市霧生にある三国山を根城にして、日吉の神輿を奪ったというのは興味深い。三国山と猿と、雨宮千勝と奇妙な一致をみる。
思うに、雨宮とは、飴宮のことではなかろうか。飴とは、鏨(たがね)のことをいい、タガネとは、金工や鉱夫が使用する、金属を切ったり、鉱窟を掘るときに使用する金属の鑿(のみ)のことをいう。そして、千勝の勝はカチであり、鍛冶を指しているとも考えられる。
したがって、雨宮大明神が白胡麻の穂で目を突いたというのは、当然といえば当然の伝承であり、千勝の弟の市録という名からも目が不自由であることが伺われ、雨宮氏が鍛冶氏族であることを示唆していると考えられる。
そして≪豊受大臣≫とは、もちろん豊受大神、つまり豊受比売のことを指しているのはいうまでもないが、実は、この神もまた鍛冶神であるとわたしは考える。なぜなら、豊受比売を祭神とする神社に、片目伝承が少なからずあるからにほかならない。
つまり、猿ヶ京は、かつて、鉄の花咲く郷であったにちがいない。