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Channel: スネコタンパコの「夏炉冬扇」物語
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猿ヶ京

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  その小社の西側面には「紳士お手入れ口」、反対側には「淑女お手入れ口」と書かれ、その下に、それぞれ四角形の切り口があって、ピンクの布が覗いている。

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 ここに淑女?が手を入れると、ちょうど巨大な金精さまの頭に触れられるようになっている。自分の歳の数だけなでなですると、ご利益ありなんだと。

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             金精さまの左はヴェールがかかって見えない
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 ところが、紳士が手を入れるところは布で覆われていて、そこに何があるのか、外側からは見えない。それをいいことに、紳士とはおよそ縁もゆかりもない無頼の徒であるスネコタンパコ氏が、傍若無人に、とことんお触りしたのはいうまでもない。

 昔、電車の中で、倒れた女性がいて、近くにいた男性が、しきりに「大丈夫ですか?」を連呼しつつ、その女性の身体のさまざまな部分を触りまくっていたのを思い出す。

 わたしが撫でさすっていたのは、布をめくってもらうと、こんな状況。

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 敢えてクローズアップ写真は略す。でも、なぜ黒く塗っちゃったんだろう。昔の、いわゆるビニ本を思い出す。

 それとも、陰毛のつもりだろうか。それにしても、かなりリアルにできている。触感もいいな、これ。

 ここは群馬県みなかみ町猿ヶ京に鎮座する神明神社の、急こう配の参道途中にある金精堂。地元の人は「こんこんさま」と呼んでいるらしい。

 関東の金精さまはそのほとんどが男根単独で祀られているが、このようにペアで祀られているのはまさに珍。

 猿ヶ京の近く、国道一七号線の三国トンネル(上越国境)の上の三国峠には、御阪三社神社があって、群馬の赤城、新潟の弥彦、長野の諏訪の三社が祀られているから、諏訪信仰のオオマラさまとオオツビさまの影響でも受けたのだろうか。もっとも、この三社はいずれも金属と関係の深い神社ではある。

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御阪三社神社 鳥居の脚にひびが入り周囲は立ち入り禁止
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              真ん中よりやや下 小さく鳥居が見えるところが三国峠  

 採鉱民はタタラ製鉄を出産にたとえる。

 金精堂のマラとホトも、猿ヶ京一帯で、タタラ製鉄が行われていた証拠ではなかろうか。

 まず猿ヶ京という地名が怪しい。「猿」が付く地名は金属を産出するケースが多い。

 猿ヶ京一帯はかつて宮野と称したという。現在も小字で宮野がある。地名が猿ヶ京に変わった由来は以下の通り。

 ≪有名な戦国武将、上杉謙信。彼が越後から三国峠を越えてこの辺り(当時は宮野と呼ばれていました)にやって来た時のお話。どこまでも広がる大地に立ち、やはり果てなく広がる空を見、この地を治めたいという強い衝動に駆られました。
その夜、謙信は飲酒し、気持ちよく眠りについたところでなんとも奇妙な夢を見ました。
 宴の席でごちそうを口に入れたとたん、前歯がいっきに8本も抜け、手の中に落ちてしまうという夢です。戦の直前にいやな夢を見たと家来に言うと、「片っ端から関八州を手中にするという、縁起の良い夢でございます」とのこと。その日はちょうど庚申の年、申の月、申の日、そしてなんと謙信の生まれ年も申年だったことから、「この地を申ヶ今日と改めるぞ」と、謙信も上機嫌。
 この『申ヶ今日』が訛り、文字も変わって『猿ヶ京』と呼ばれるようになったといわれています。≫(猿ヶ京温泉旅館協同組合のWebより転載。ただし、Webで、≪庚申の年≫とあるべきを≪唐申の年≫とあるのはいただけない。)

 わたし以上の、鉄面皮ともいえるほどの故事付けである。

 しかし、謙信が登場するところがミソだろう。謙信もまた信玄と同様、鵜の目鷹の目金属を狙っていたに違いないからだ。

 そして、陰陽五行説では、十干の庚も十二支の申も、ともに陽の金であり、猿ヶ京と金属との関係を暗示する。

 わたしは、猿ヶ京とは「さびヶ郷」の転ではないかと思う。サビ→サブ→サム→サルではなかろうか。サヒ・サビとは鉄の古語である。

 猿ヶ京温泉の「売り」の一つに赤谷湖がある。売りといってももちろん買い手がいなければ売買は成立しない。おそらく買い手が不在なのだろう、温泉街は閑古鳥も訪れないような有様で、崩落寸前の宿泊施設が点在する。

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                                 赤谷湖

 昔、「崖っぷち犬」というのが話題になったが、ここは「崖っぷち温泉」といえそうだ。赤谷湖は赤谷川を堰き止めたダム湖である。

 赤谷湖は青々としていて、ちっとも赤くない。旅館の従業員に訊いてみても、川は赤くはないという。

 ところが、旅館の床の間に飾られている「赤谷川の石」はまぎれもなく赤かった。残念なことに、写真を撮るのを失念したのは、認知症の兆しでもあろうか。

 それは、赤茶けた砂粒のなかに指先ほどの小石が挟まったような堆積岩であった。

 この辺りの地層を猿ヶ京層群という、と上毛新聞社発行『群馬県百科事典』はいう。

 ≪谷川岳の南、利根郡新治村・水上町・月夜野・沼田市にかけては、かつての海底火山の噴出物であるグリーンタフ(緑色凝灰岩)を大量に含む地層が分布しているが、その上部を猿ヶ京層群という。第三紀中新世中ごろの海に堆積した地層で、赤谷川沿岸地域に広く分布し、三国峠から三国山にかけての高所にも分布する。≫

 猿ヶ京層群の岩質は、下部から、後閑層・赤谷層・原層・合瀬沢層・大道層の五層に細分され、その内の合瀬沢層について、同書は≪礫岩・砂岩および凝灰層よりなる累層。砂鉄層を挟む。≫としている。

 「赤谷川の石」はまさにこの砂鉄層を挟んだ合瀬沢層の石ではなかろうか。

 合瀬は猿ヶ京温泉の西のみなかみ町永井にある小字であるが、永井はナカイで、ナカはヌカの転ではなかろうか。赤谷湖に西から流れ込む川に西川があり、この上流部の沢をムタコ沢という。この変な地名もヌタコ、あるいはヌカコ沢ではあるまいか。ヌカとは砂鉄を指す。永井には、赤沢があり、保戸野山も存在する。

 永井と猿ヶ京に挟まれ南北に細長い大字を吹路という。これは吹く炉か。

 そう考えると、西川というのも、確かに西から流れ込む川ゆえの命名かもしれないが、あるいはもともとはサイ(サヒ)川で、サイの字に西を当てたため、ニシ川になったと考えられないこともない。

 一方赤谷川を北へ遡行して行くと、西から渋沢が合流し、更に北上すると、金山沢と出合う。金山沢は上流部で平標山の家付近から流れ落ちる笹穴沢に分かれる。

 これらの沢名も鉄を想起させ、決定的なのは、金山沢の南西、大源太山から派生する東の尾根上に一六八四mのピーク黒金山があることだ。そしてさらに、その南東に、鷹ノ巣山があることは無視できない。もしかすると、かつてこの山の近くに、鉱山があったのではなかろうか。

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 大源太山は別名を河内沢ノ頭という。カワチはカヌチを連想させる。河内沢は大源太山の西から流れ落ち、新潟県南魚沼郡湯沢町元橋付近で二居川と名を変える。

 この辺りを火打峠というのも興味深いが、元橋という地名にもヨダレが滴り落ちる。

 埼玉県蓮田市馬込字辻谷の共同墓地にある薬師如来像を管理しているのが本橋氏であり、蓮田と岩槻の馬込に多く居住する氏である。

 この氏は、戸田市にも多く、荒川沿いの笹目近くの新曽に顕著である。また戸田市の隣、鋳物の街川口にも多い。

 更に、岩槻に隣接する春日部市大増新田にも多く、大増新田の西隣増冨には小字鍛冶田耕地がある。春日部に「増」の付く地名が多いのには今気づいた。

 さて、話をもとに戻そう。

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猿ヶ京神明神社
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神明神社二の鳥居

 猿ヶ京神明神社は、かつて雨宮神社と称し、宮野に鎮座した。

 二の鳥居近くの説明板にはこうある。

 ≪昔、神明様は、雨宮大明神と称した。清和天皇の後裔、雨宮千勝は文武両道、源頼朝に重用され同僚の妬みをかい、三国峠を越え越後雨宮村に逃れる途中、潔く猿ヶ京の地で割腹した。その時連れの狛犬に手紙を託し、雨宮村の弟の市録に届けた。その後、猿ヶ京では、大疾病が流行ったので、占わせると、雨宮千勝の霊を鎮めよと出たので、天文年間外宮豊受大臣を勧請し雨宮大明神として近隣七か村の鎮守として祀った。明治四十一年に吹路諏訪社、永井十二社、三坂社を合祀し神明神社と改称した。雨宮大明神が葦毛馬から下馬する時、白胡麻の穂で目を突かれたので、猿ヶ京では、葦毛馬を飼うこと、白胡麻を植えることを禁忌としている。≫

 雨宮千勝がどのような人物であるのかはさっぱり不明である。が、しかし、千勝という名は、いやがうえにも、千勝、あるいは近津、千方、血形などと記される神社を思い出させ、さらに、藤原秀郷の子だとも、孫だともいわれる藤原千方を想起させずにはおかない。

 藤原千方は、天智天皇の時代に、伊勢や伊賀地方で、四鬼を使って欲しいままに悪事を働いていたとされる人物で、朝廷から派遣された紀友雄によって、三重県津市白山町を流れる雲出川の瀬戸ヶ淵で討ち取られ、その首は川を逆に流れて上流の美杉村の方へ着いた、という伝説がある。

 謡曲「拾葉抄田村」には≪伊賀の国霧生(きりゅう)村三国ヶ嶽に、千方将軍の籠居の旧跡あり。谷は北面十五間、東西八間、門は北向石柱二本有り。長さ一丈、一本は折れたり。村上天皇御宇藤原千方正二位を望みしに、其甲斐なかりければ、是を逆心し、日吉の神輿を取り奉り、彼は山に取籠もる・・・云々≫とあるそうだ。

 千方氏が、三重県伊賀市霧生にある三国山を根城にして、日吉の神輿を奪ったというのは興味深い。三国山と猿と、雨宮千勝と奇妙な一致をみる。

 思うに、雨宮とは、飴宮のことではなかろうか。飴とは、鏨(たがね)のことをいい、タガネとは、金工や鉱夫が使用する、金属を切ったり、鉱窟を掘るときに使用する金属の鑿(のみ)のことをいう。そして、千勝の勝はカチであり、鍛冶を指しているとも考えられる。

 したがって、雨宮大明神が白胡麻の穂で目を突いたというのは、当然といえば当然の伝承であり、千勝の弟の市録という名からも目が不自由であることが伺われ、雨宮氏が鍛冶氏族であることを示唆していると考えられる。

 そして≪豊受大臣≫とは、もちろん豊受大神、つまり豊受比売のことを指しているのはいうまでもないが、実は、この神もまた鍛冶神であるとわたしは考える。なぜなら、豊受比売を祭神とする神社に、片目伝承が少なからずあるからにほかならない。

 つまり、猿ヶ京は、かつて、鉄の花咲く郷であったにちがいない。



トレイルランナー

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         日和田山  二人のトレイルランナー 一人はもう一人の足元をしげしげと見つめている
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                     それもそのはず 左側のランナーは裸足であった
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                           うむ、いい脚しトレイルランナー

和合権現

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                               正面からではよくわからん
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                 横から見ると、なにやら恐竜アパトサウルスの首のようである
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                              はあー、こんなですか
 
 これは山梨県甲府市御岳昇仙峡パノラマ台にある和合権現。

 その由来については、こう書かれている。

 ≪水晶発祥の地として有名な金峰山のふもとに、神の摂理か男女の象徴を合わせ持った樹齢三百五十年を経た楢の木があり、近在の人々から信仰の対象として崇拝されてまいりました。 
 当ロープウエイ開業時(昭和三十九年)地元のご好意により、この御神木を山頂にお移しし、権現様としてお祀りいたしました。時を経て、この権現様は和合権現と呼ばれるようになり、良縁起と幸福の神様として親しまれるようになりました。≫

 昇仙峡には、このほか数ヶ所にこの種の信仰物があるが、元はおそらく、採鉱冶金に因んだ習俗であると思われる。それについては後日書くことにして、今回は、和合権現のお詣り作法について触れておく。

 ≪和合権現お詣り次第≫と題してこんなふうに書かれている。

 ≪一、御神木の左側福銭の前に立つ
   一、臼太鼓を一回だけ鳴らす
   一、御神木に一礼 手を触れてお詣りする
   一、御神木の右側からゆっくりと一周する(願い事を唱えながら…)
   一、御神木を背にして真っ直ぐ30m進み浮富士広場へ…
   一、広場にて富士山に手を合わせ合掌する≫

 ≪御神木の左側福銭の前に立つ≫というのは、賽銭を入れなさいということであり、≪臼太鼓を一回だけ鳴らす≫というのは、神社拝殿に備え付けられている鈴を鳴らすのと同様で、神を覚醒させるということだろう。
 
 正式には、バチではなく、マラで叩くのかもしれない。もちろんそんなことでバチは当たらない。仮に当たったとしても、太鼓でよければいい。

 わからないのは、権現様に願をかけた後、三〇メートル先の富士広場で富士に向って合掌する、という条だ。

 和合と富士とどういう関係があるというのだろうか。

 あれこれ考えてみたが適切な答えが見つからなかった。
 
  強いていえば―――かなり矛盾するが―――こんな歌?があったことを思い出しただけである。

 ≪三国一の富士の山、甲斐で見るより、駿河一番≫

金桜神社とマラ石

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                                御岳八雲神社
 
 和合権現の西、数十メートルに、八雲神社があり、スサノウとクシイナダヒメを祀るが、神体はマラ石である。

 ≪永禄七年三月建立 当地甲斐の国巨摩郡・猪狩村の氏神で古来より石祠内には石棒を安置して祀り、夫婦和合と武運の神として地元猪狩村はもとより近郷・近在の民衆からの信仰は厚く、縁結びの神としても知ら、この地が金桜神社の古い参道の要所であったこともあり、参詣者の休息と道中の安産を祈願した処であります。≫と説明板には記されている。
 
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                            八雲神社ご神体のマラ石
 
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                                 夫婦木神社

 昇仙峡ロープウエイ登り口の近くに夫婦木姫宮というのがある。本宮は金桜神社の下にある夫婦木神社で、こちらの説明板にこうある。

 ≪御祭神イザナギ イザナミ大神 神木夫婦木の由緒 樹木栃
 古来和合繁栄特に縁結び、子授けに霊験あらたな神と信仰され、多くの伝説を持つ。
 周圍十米餘、直径三米、樹体の中心空洞にして男女両性をあらわし夫婦和合の形をなす・・・云々≫

 ここは撮影禁止で、拝観料を取る。わざわざ銭を払ってまで見たいとは思わない。自分のなら、見たいときにいつでも見られる。
 
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                                夫婦木姫宮

 姫宮の方には、イザナギ、イザナミのほかに柿本人麻呂が祀られている。こちらは岩屋のなかに祀られていて、安産の神なのだという。つまり、人麻呂→人産まる、ということらしい。人麻呂は「火止まる」から火防の神にもなり、一丸(ひとまる)から一眼、つまり鍛冶神にもなるが、もともと鍛冶は出産と火とも関係がある。

 夫婦木姫宮の宮司の話よると、金桜神社は、もと甲信国境の金峰山頂にあったのを麓に下したものだという。金峰山北西の尾根上に花崗岩の巨大な一枚岩、大日岩があり、その近くに大水晶窟が今もあるが、場所は極秘事項で、ほんの一握りの人しか知らない、という。どうやら、金桜神社と水晶との関係をにおわせているようだ。

 宮司が水晶に着目したのはいい線いっているとわたしは思う。

 なぜなら、水晶のあるところ、すなわち金を産出するからである。
 
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                                御岳金桜神社

 金桜神社(甲府市御岳町)は、「社記」によれば、金峰山頂の巨石にスクナヒコナを祀り、これを御像石と称えてきたが、ヤマトタケルがこの山に登拝したとき、国家鎮護の霊地としてスサノオとオオナムチを配祀し、御像石の南西に社殿を建立したのが山宮の創建で、その後、雄略天皇一〇年、現在地に里宮の社殿を造営して、山頂の山宮から祭神を遷し、山宮を本宮と改めた。さらに文武天皇二年、大和国金峰山より蔵王権現を勧請し、本宮および里宮に合祀、神仏習合して社名を蔵王権現と改めたという。
 
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                   パノラマ台から見る金峰山五丈岩 最も高いピーク

 御像石は、今は五丈岩といわれており、昇仙峡パノラマ台からも、その花崗岩の顕著なピークは確認できる。

 わたしは、一九九五年八月五日、富士見平キャンプ場にテント泊し、翌日山頂に立ったが、五丈岩のピークにフリーで登った数人のハイカーの内の一人が下りられず、右往左往していたのを今でも鮮やかに憶えている。

 昼飯後早々に下山したので、そのにわかクライマー氏がその後どうなったのかは知る由もない。

 富士見平キャンプ場の下、一キロメートルほどのところに金山平があり、かつて金山千軒といわれ、栄えたという伝承がある。

 『角川日本地名大辞典 19 山梨県』にはこうある。

 ≪「昔、武田氏が甲金を鋳るために数千人の人を送って金鉱を採掘させ、そのため人家が繁盛して金山千軒といわれた」(甲州の伝説)という。付近は信玄が開発したという旧坑が残る。鉱山付近の地質は御岳型黒雲母花崗岩から構成され、坑道にみられる鉱脈は含金ペグマタイト質石英脈であるという。また金山有井館には鉱石を砕くために用いたという石臼がある。≫

 水晶とは石英のことにほかならず、金は石英中に存在する。

 『宇治拾遺物語』に「金峯山薄打事」(これは奈良県吉野町の金峰山)という話があるとおり、金峰山と金とは密接な関係がある。

 御岳金桜神社が金鉱と関係があるのは、少彦名命を主祭神とすることや、金桜神社から北へ金峰山へと向かう道に猫坂というところがあることからも推測できる。ネコとは採鉱冶金の民を指し、かれらが砂金を採る方法を「ネコ流し」という。

 金桜の社名は≪金を以って神となし、桜を以って霊となす≫によるものだというが、サクラ地名は金属と深くかかわりがある。

 例えば、『日本歴史地名大系 滋賀県の地名』(平凡社)は、県内の金屋関連地名として、≪鋳物師、鋳物師釜、鋳物師屋、鋳物師方、芋ヶ谷、イモガノ、イモト、妹路海道、イモラ、イモノホラ、鐘撞、金付、鐘鋳場、鐘釣台、金山、鍋作り、鍋塚、鞴谷、多々良壱、中鞴、金クソ、金久曾、桜本、桜谷、南桜、桜生、桜小場、左倉、桜立≫を掲載しているが、残念なことに、なぜサクラ地名が金属と関係があるのか、その理由は記されていない。

 金桜神社は、金峰山の南東、山梨市牧丘町杣口にもあり、その宮司の≪「金桜とは、金さくり(鑿、探)の意だと思う」≫という説を、小田治は『地名を掘る』(新人物往来社)のなかに掲載している。

 ちなみに吉野裕は、サクラとはアサクラのアが落ちたものという解釈で、なるほどアサもクラも金属と激しく関係する語である。

 ということで、わたしは、和合権現や御岳八雲神社、はたまた夫婦木神社などで祀られているマラやホトが採鉱冶金に因んだものと解釈できると考えている。

 そんなこんなで、先日、地図上で、川越市鴨田に金精稲荷神社というのを見つけたので、ちょいと行ってきた。
 
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              左のご神体に「魂勢大明神」 右の石碑に「金精(以下読めず)」

 旧与野市大戸のオヒジリサマに恐ろしいほど似ていたのでびっくりしたが、そこから北西五〇〇メートルほどのところに、鍛冶屋敷集会所があり、その近くで、眼病にご利益ありといわれる薬師堂と遭遇したのは、まさにツボにはまったといっていいだろう。どうやらこの辺りの小字を鍛冶屋敷と称するらしいのだ。
http://blogs.yahoo.co.jp/sunekotanpako/30425447.html
 
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彼岸の墓地

お引越し

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 引越した・・・といっても、もちろんリアルの話。

 一年以上かけての計画が一昨日完了。

 新居では、WiFiに切り替え、ネット環境は実に快適。

 問題は、オーディオ環境で、二、三年かけて完成したシステムを一旦ばらばらにしてしまったので、これを再構成するのは容易ではない。いっそオーディオもWiFiにしてくれといいたい。いや、最新の事情にはうといので、おそらくすでにオーディオもコードレスになっているんだろうな。あいにくわたしのはもう一〇年も前の代物なのでね。

 しかしながら、荷解きはまだまだこれからで、室内は混乱を極めている。

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 落ち着き次第、ブログを再開する予定。

0123部隊

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 正式名称をエアキャップっていうんだそうだが、いわゆる「ぷちぷち」というやつだね、これをスピーカーに一回だけぐるっと巻いて、ダンボール箱に納めているから、心配になって聞いてみると、≪手荒に扱うわけではないから、これで大丈夫です。≫という。

 確かに、おっしゃるとおりであれば、そうなのかもしれない。ところが、わたしの右スピーカーはめっちゃ手荒な仕打ちを受けたようで、引越し後、二、三日して、ダンボール箱から引っ張り出し、エアキャップを取り去ってみると、正面下部両角がぎざぎざにつぶれてしまっていた。

 メインスピーカーは、ONKYO製で、一本二五㎏ある。おそらくトラックに積み込む直前で落したものと思われる。

 0123部隊は、男性のリーダーと普段は梱包専門だという女性、それにかなり年配の新米アルバイト氏の三人編成で、この指示待ちアルバイト氏の行動を観察すれば、かれが落したであろうことは容易に想像がつく。

 確かに、この時期多忙を極めているのはよくわかる。しかし軒数をこなさんがために品質を落とし、スピーカーを落とし、客の信頼を落としてしまっていいのだろうか。やがて、0123部隊の評価は地に落ち、アリさんのように地表を這いずり回ることになりかねないよ。

 本社に連絡した結果、メーカーでは、すでに生産を終えているため修理はできなというので、アート提携のメンテナンス会社が修理するという。

 試みに、John Coltraneのアルバム「Ballads」の最初の曲 「Say It (Over and Over Again)」を聴いてみる。幸いなことに、音に変化はないようだった。

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 ところで、ダンボール箱からなかみを取り出してはみたものの、混乱状態には、それほど違いはつかまつらないようであった。

 ≪部屋の片付き度と頭の中の整理度はパラレルだ。≫とは精神科医春日武彦氏のことば。とすると、どうやらわたしの精神はかなり危険な状況にあるのではなかろうか。

下老袋東稲荷神社

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 国土地理院の地形図には、川越運動公園の東、川越市下老袋の入間川堤防付近に鳥居のマークがある。しかし、わたしが利用している昭文社の地図ソフトやヤフー、グーグル、駅探の地図にもそれは記載されていない。下老袋氷川神社へ行くついででもあるから、とりあえずこの神社の存否を確かめるため地図をたよりに歩を進めてみる。

 国土地理院の地図は、あくまでも地形図であるから、道路地図や住宅地図とはちがい、住宅街などの細部の表記はかなりいい加減で、記入されている細い道が必ずあるとは限らない。

 まさにこの辺りがそれで、地図と実際の道とがうまく一致せず、そのうち自分が地図上のどの辺にいるのかさっぱりわからなくなったころ、ひょいとこじんまりとした神社に出くわした。社名が書かれていないので、はてなに神社だろうと右往左往していると、杖を突いたおばあちゃんがやって来たので、うまいところへ北野武、さっそく訊いてみると、東稲荷だ、という。なぜ東なのかと問えば、「そりゃ、川越の一番東にあるからじゃないのかい。」と至極明快だ。

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                          東稲荷神社とおばあちゃん

 このあたり、荒川と入間川が並行して南流しているところで、川越市とさいたま市との境は、荒川ではなく、荒川の東の河川敷に大きく入り込んでいる。おそらくそれがかつての荒川の流だったのだろう。

 入間川の流も大きく変化したらしく、今でこそこの川は下老袋の東を流れるが、かつてはその西を流れており、下老袋の西隣、同市鴨田はかつて入間郡に属したが、下老袋は比企郡に含まれた。

 おばあちゃんは、脚を悪くしてからというもの毎日杖を突きつつこのお稲荷さんにお参りしているから、脚の具合もだいぶ良くなってきた、という。そしてこう教えてくれた。

 「この稲荷は関根の家で祀っているものなんだよ。」

 「昔は、この辺みんな関根ばかりだった。今もあそこや、あのちょっと高いところにあるあの家も、あっちも関根だけどね。あの高いところにあるのが本家。」と杖で指し示す。

 もちろんおばあちゃん自身も関根氏であった。

 ちなみに、大阪出身の知人がいうには、関根という姓氏は関西では全く聞いたことがなく、関東ではやたら多いので驚いたということだ。

 彼女は「なか見てきなさい。」というと、拝殿の扉を開けてくれた。なるほどなかに飾られている「幟旗竿改修工事」や「屋根改修工事」などの奉納者名を記載した板はほとんど関根氏の名で占められていた。

 確かに、東稲荷を訪れる前に立ち寄った農民センター隣の墓地も関根氏の墓碑が極めて多かった。

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                        農民センター隣の墓地(玉泉寺跡)

 そろそろ話も尽きようというころ、おばあちゃんはぽつりとこんなことをいった。

 「そうそうお稲荷さんっていうのは火の神さまでもあるんだってね。」

 なぜかおばあちゃんの口から出たのが意外だった。

 「そうなんですよ。よく御存じですね。稲荷神社の総本宮の京都伏見稲荷大社では一一月にフイゴ祭りっていうのがあるんです。鍛冶屋さんのお祭りです。この辺に鍛冶屋やってた人いませんか。」

 するとまたしても意外な応答が。

 「鍛冶屋はしらんけど、鍛冶屋という屋号の家はあるよ、関根の家で。」

 「昔、鍛冶屋だったんでしょうかね。」

 「さあどうだかわからんけど。」

 二〇分ほど話をしただろうか。それから、関根本家の前を通って下老袋氷川神社へ向かった。

 おばあちゃんが、稲荷神が火の神でもある、ということを知っていたという事実は、近年まで、この地区でフイゴ祭りが行われていたか、あるいは伝承として稲荷神が火神であると語られてきたか、いずれにしても近傍での鍛冶の存在が考えられる。

 となると、『埼玉苗字辞典』が、関根氏について、つぎのように述べているのには興味を引かれる。

 ≪関根 セキネ 根、子(ね)は、胡、子(こ)の転訛なり。胡(えびす)、蕃(えびす)は韓半島の渡来人を称す。上野国の大胡村(おおご)、多胡郡(たこ)は大ノ国(韓半島南部)の胡(えびす)族渡来地なり。姓氏録は是等の氏族を諸蕃(しょばん)と記す。渡来人の昔(関)族集落を関根と称す。≫

 そして同書によれば、≪渡来人の昔(関)族≫とは、新羅第四代王昔脱解(しゃくだっかい)の後裔を指し、昔氏はアメノヒボコの後裔にあたる。

 ≪東国通鑑に「昔脱解は、もと多波那国の所生也。其の国は倭国東北一千里に在り」と見ゆ。昔一族を率いた新羅王の王子天日槍(あまのひぼこ)は多波那国に渡来し、丹波国(多波那)より分国した但馬国出石郡(兵庫県出石町)出石川流域に居住し、一族は天日槍命を祀る出石神社(出石町宮内)を奉斎す。後に此地から新羅国へ渡り王となったのが昔脱解である。古代氏族系譜集成に「新羅王家昔氏。次々雄(号檀君)―神乎多―迎烏(号天之日矛、亦曰・花浪神)―天佐凝利命―阿加流日古(移于多波那。多遅麻公祖)、弟の知古(止于韓地)―沙莫(為昔氏)―麻智―烏流―解布曹―脱解(第四代新羅国王)―休鄒―伐休(第九代国王)―伊買―奈解王(第十代国王)―伊?―微伐(応神天皇七年九月帰化。近義首、山田造の祖)」と見ゆ。天日矛は代々の襲名なり。此の一派は武蔵国秩父郡へ移り、秩父縣主となり、其の後裔は鉱山鍛冶師の所領秩父氏へと継承された。昔は関の佳字を用いて、美濃国の関鍛冶は有名なり。東国鋳物師の頭梁は多摩郡谷保村(国立市)の関氏が務めた。≫

 『古代氏族系譜集成』によれば、天之日矛の二代後の阿加流日古は多遅麻公(たじまのきみ)の祖であり、昔脱解の後裔である近義首(こごのおびと)は山田造の祖であるという。

 そういえば、川越市には、南田島と北田島という地名があり、入間郡より高麗郡に亘る五五ヶ村が山田庄を唱えていたというし、同市には今も山田という地名が残る。

 また、『埼玉苗字辞典』はアメノヒボコの一派は秩父氏とつながりがあるというが、確かに河越氏は秩父氏の後裔であった。

 いや、そればかりではない。

 同書は、下老袋の関根氏について、≪当村土豪関根織部は、藤原姓波多野氏流広沢氏(新座郡広沢庄より起る)の名跡を継承して広沢織部を称す。≫と述べている。

 藤原姓波多野氏がいかなる出自を持つ氏か不明ではあるものの、この辺りにだけ藤原鎌足を祀るという神社が二社あるのは偶然だろうか。

 一つは、東稲荷の西九〇〇メートル、鴨田にある中臣大明神で、もう一つは、同稲荷の北西四キロメートルほどのところ、同市石田にある藤宮神社である。ついでにいうと、ちょっと距離は置くものの、同市池辺には鎌足稲荷神社というのもある。池辺は同市豊田本の西隣に位置する。

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                              中臣大明神
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                                藤宮神社
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                             鎌足稲荷神社

 ところで、アメノヒボコは、天日槍、あるいは天之日矛、天日桙などとも書かれ、槍・矛・桙などと記されるホコとは、その形状からして、あらためてことわるまでもなく、マラを象徴すると考えられ、マラとはすなわち鍛冶の象徴でもあるのだが、下老袋氷川神社にはかつて「けつ踊り」という祭りがあったという。

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                             下老袋氷川神社

 ≪中老袋薬師堂にある屋台と下老袋玉泉寺にある屋台が、一五日当社に集まり、ヒッカワセを行く囃子を競うが、けつ踊りはこれに附随して行われる。中老袋は屋台の上に藁で男女を形取った物を前に当てた二人が出て、これを面白おかしく〝オッカワセル〟ものである。下老袋は屋台の上に、尻に籠を着け、これにおかめ、ひょっとこの面をかぶせた二人が上がり、あおむけになり、足に傘と扇面を持ち、〝ケツカワセ〟をして踊るものである。≫(『埼玉の神社』)

 玉泉寺は、今は無く、下老袋農民センターの墓地がその名残である。ヒッカワセ・オッカワセ・ケツカワセなどの「カワセ」とは、おそらく「交せ」であって、つまり男女の交わりをいい、すなわちマラとホトとの関係であって、要するにタタラ製鉄に付随した行事と考えられないこともない。

 そして「交す」は「くなかう」で、道祖神である久那斗神につながり、下老袋氷川神社の摂社脛巾(はばき)社を思い出させる。

 『埼玉の神社』はこの脛巾社についてこう記している。

 ≪脛巾社は古くから社殿は無く、一本の椋の木であり、門のごとく参道に枝を垂れていたが、現在は切株を残すのみである。口碑に、昔ここの神様が、大宮の氷川様と戦争をして敗けて帰った時、脛巾をこの木に掛けたので、脛巾様と称して祀ったという。このため当社の氏子は大宮の十日市に行ってはならないという。≫

 古くからある氷川神社はアラハバキを摂社として祀っているケースが多い。氷川神社総本宮である大宮高鼻氷川神社もしかりで、社殿の東に摂社として門客人社がある。門客人社と書いてアラハバキと読む。氷川神鎮座以前よりあった神である。

 アラハバキとは、脛巾から、脚の神であり、道祖神とも考えられるが、ハバキは羽鞴(はぶき)であって、足で踏み風を起こす道具だから、それで脚の神とも考えられないことはない。要するに、もともとは製鉄神だったのではなかろうか。アラとは、アラガネ――精錬されていない金属――のアラである。

 下老袋氷川神社境内の石碑には、関根氏の名も見られるが、新井、秦、波田野などの姓氏も多かった。

 波田野は『埼玉苗字辞典』のいう≪藤原姓波多野氏≫であり、波田は秦であって、新羅系といわれる秦氏と関係があるんだろう。ついでにいうと、秦氏は、県内では、川越市に多い姓氏で、同市大中居の普門山松寺には秦氏の立派な墓碑が多かった。そういえば、ここには新井氏の墓碑も結構あった。

 道祖神ついでにいえば、関根氏本家が建つ場所はかつて道祖土(さいど)氏の館跡だという。道祖土氏は岩槻太田氏の家臣であった。


龍土大権現 (上)

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                              龍土大権現                   

 もう一ヶ所、国土地理院の地形図にはあるが、昭文社、グーグル、ヤフー、駅探のそれぞれの地図には掲載されていない神社マークが川越市鴨田の鍛冶屋敷集会所北三〇〇メートルほどのところにある。これを龍土大権現という。

 わたしが訪ったときは祭りの真っ最中であった。

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 参列者のなかに交じって神主が祝詞をあげているのを写真に撮っていると、シャッター音に振り返り、ギロっと迷惑そうな顔で睨らむ人物がいる。ちょっと若目の人に、今日はなんの祭りか、と尋ねると、逆に「あんたイチバの人?」と問われ、「違います。」といえば、なにも答えてくれない。集団の中心からちょっと離れたところで見ている若い女性に挨拶をしても、返事がない。なんか敵意むき出しのハリセンボン。

 長い白ヒゲを蓄えた神主の祝詞が済むと、そこに集まった人たちが一人一人順番に拝礼を始めたので、ここはとりあえず引いて、その北西一五〇メートルほどのところにある観音堂へ向かう。

 観明院観音堂の東の道の奥が気になるので、行ってみると、そこは西門集会所で、稲荷神社ともう一社(不明)が祀られている。

 同じ道を龍土権現へと引き返す。すでに祭りは終了したと見え、社前には、神主と関係者と三人しかいない。なんとか神主とコンタクトを取りたいが二人にガードされていて、近寄れない。龍土権現の東隣もまた観音堂で、墓と集会所があり、そこで直会があるのだろう、神主は二人と共に集会所のなかへ消えた。

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                 府川八幡神社の社務所 ポスターの主が原宮司

 実はこの神主この辺りの多くの神社の祭祀を受け持っている有名な宮司で、原將英といい、中臣大明神の額を書いたのもこの人物だ。

 龍土権現を訪れる前に立ち寄った鴨田稲荷神社の氏子に中臣大明神の話を伺っていると、詳しい話は府川の原宮司に訊けということであった。したがって、この白いアゴヒゲのいかにも雰囲気のある神主がもしやその原宮司ではないかと直感したので、なんとか声をかけたかったのだが。

 それに、もしかすると、この原氏は甲斐の原氏と関係があるのではないかという疑問もわいた。

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                         浄土真宗大谷派真行寺

 というのは、府川の近くの宮元町に武田信玄の妹の八重姫が開基だという真行寺があり、ここに姫を守って落ち延びた岩崎氏の墓碑があるのだが、この岩崎氏の後裔が吉見町荒子の岩崎氏だというからである。ところで、吉見町一ツ木の椀箱淵に原氏がかかわっていたことはすでに書いた。一ツ木の原氏は信玄を助けた原大隅の子孫を称している。そして、一ツ木にはかつて鍛冶屋敷という地名もあったのである。

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                              原伏見稲荷神社

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                               岩崎神社         
            
 吉見町といえば、黒岩の横穴墓群上の山に原伏見稲荷を祀ったのは一ツ木の原氏であり、黒岩という地名の由来となった立石にかつて祀られていたのが、現在、伊波以神社に祀られている岩崎神社である。

 しかも、『新編武蔵風土記稿』によると、府川村の名主は代々小沢氏だったという。武川衆の小沢氏と関係があるのではあるまいか。

 話をもとに戻す。

 龍土権現社をカメラに収めて、再び観明院観音堂方向へ、来た道を戻ると、突然垣根越しに「あんたさっきから何度も行ったり来たり、なにしてんだ!」と険悪な調子で呼び止められた。

 「寺社を写してますが。」「ジシャ?」「寺や神社ですよ。」「どっから来た。」「旧大宮市ですが。」「そこに停めてある車はあんたのか。」「いや、わたしは歩きです。」「歩き?大宮から歩いてきたのか。」「いいえ、あそこの運動公園に車を止めて、歩いてきたんです。」「おれは大宮はよく知ってるぞ、大宮のどこだ。」と男はまだ納得がいかないらしく、追及の手を緩めない。「大成三丁目ですよ。昔のいわゆるキャンプ通りご存知ですか?あれが一七号と交差する大成三丁目交差点のすぐ近くですよ。」ここらで一転立場が変わってわたしが攻勢に出た。「あの龍土権現、今日はなんの祭りなんでしょうか。」「うん、祭りだよ。普通の。」「なんという神さまを祀った神社なんでしょう。」「さあ…」「龍土ってくらいですから龍を祀ってるんでしょうか。」「・・・」「あそこに鍛冶屋敷集会所ってありますが、あの辺りにかつて鍛冶でもいたんでしょうか。」「ま、いたんじゃないの、そういう地名なんだから。」「西門集会所に稲荷が祀られていますが、もう一つのお社はなんでしょう。」「諏訪様だよ。」「この辺りを市場というそうですが、その理由は。」「昔、市場があったようだよ。」

 なんだか、クイズ・タイムショックみたいなんでこの辺でやめておく。つまり、大した収穫はなかった。それにしても排他的なところである。こういう待遇を受けたのは初めてであった。




龍土大権現 (中)

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鴨田薬師堂
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                 天台宗星光山一乗院 本尊は長野善光寺と同じく一光三尊阿弥陀如来

  その後、薬師堂、新善光寺を称する星光山一乗院を経て、伊佐沼に出たところで、わたしはしばし伊佐沼について考えた。

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                               伊佐沼
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                         伊佐沼北東部 金気立っている

 この沼については以前にもあれこれ想像をたくましくしたことがあったが、やはり「いさ」という地名は砂鉄と関係があるのではないかという観を改めて強くした。というのは、おそらく伊佐沼は旧入間川が残した沼にちがいないからで、この川の上流、飯能市安須は砂鉄で有名なところだからである。

 『鉄から読む日本の歴史』の著者窪田蔵郎は、飯能市のある加治丘陵の上部地質が第四紀洪積世の豊岡層で、豊岡層は砂鉄の宝庫であると述べている。

 ≪入間砂鉄は他と比し砂鉄総量(T・Fe)が圧倒的に多く、他の原鉱よりも優秀だといえる。鎌倉砂鉄にいたっては問題にならないほど貧弱である。この豊岡層全体が濃厚な含砂鉄層である。≫(「入間砂鉄と特殊製鉄遺跡」)

 県内で、他に「伊佐」の付く地名としては、富士見市勝瀬の小字に伊佐島がある。砂川堀が新河岸川と合流する付近で、勝瀬には鍛冶海戸という小字もあり、近くに榛名神社が鎮座する。

 伊佐島から砂川堀を約三キロメートル遡行した、ふじみ野市市沢に金山橋が架かり、近くに製鉄遺跡である大井東台遺跡がある。

 ついでにいうと、豊岡層の豊岡とは、兵庫県豊岡市の地名から採られたものと思われ、一帯に兵主神社が何社かあるように、ここは天日槍と関係のある土地であって、鉱山が多いところでもある。そして、実は、入間市にも豊岡というところがあり、さらにその西を高倉と称するのは大変興味深い。

 したがって、伊佐沼の近くに眼病に効験ありという薬師堂があり、鍛冶屋敷という地名が残っているのも不思議はなく、新善光寺を謳う寺があるのも無関係とはいえない。

 さて、伊佐沼から向った旧鴨田村鎮守の八幡神社で、龍土大権現にいた宮司と再び遭遇したのは好運であった。しかも、今度はノーガードである。

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                              f鴨田八幡神社

 そこで、わたしは、宮司が原氏であることを確認すると、早速、龍土権現の祭神について尋ねてみた。

 すると、宮司は、祭神は不明だが、神体は馬だ、と教えてくれた。そのときは信じられなかったものの、家に帰ってから、龍土権現の本殿のなかに置かれた鏡を撮った写真を、りドリースコット監督『ブレードランナー』のワンシーンを思い出しつつ、拡大してみたところ、なるほど、その背後に、馬だといわれれば確かにそれらしき物体が安置されているのを発見した。

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                           龍土大権現本殿の鏡
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                                鏡の背後の白馬?

 しかし、これは事実馬なのだろうか。社名どおり、龍だとは考えられないか。つまりこれは、いわば龍から「転訛」した馬なのではなかろうか。

 というのは、『武蔵國郡村誌』は、龍土大権現の祭神を大海積命としているからである。ワタツミの神であるなら龍であってもおかしくはあるまい。

 とすると、龍土とはなにか。それは、あるいは龍燈のことではなかろうか。

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猿ヶ京

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  その小社の西側面には「紳士お手入れ口」、反対側には「淑女お手入れ口」と書かれ、その下に、それぞれ四角形の切り口があって、ピンクの布が覗いている。

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 ここに淑女?が手を入れると、ちょうど巨大な金精さまの頭に触れられるようになっている。自分の歳の数だけなでなですると、ご利益ありなんだと。

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             金精さまの左はヴェールがかかって見えない
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 ところが、紳士が手を入れるところは布で覆われていて、そこに何があるのか、外側からは見えない。それをいいことに、紳士とはおよそ縁もゆかりもない無頼の徒であるスネコタンパコ氏が、傍若無人に、とことんお触りしたのはいうまでもない。

 昔、電車の中で、倒れた女性がいて、近くにいた男性が、しきりに「大丈夫ですか?」を連呼しつつ、その女性の身体のさまざまな部分を触りまくっていたのを思い出す。

 わたしが撫でさすっていたのは、布をめくってもらうと、こんな状況。

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 敢えてクローズアップ写真は略す。でも、なぜ黒く塗っちゃったんだろう。昔の、いわゆるビニ本を思い出す。

 それとも、陰毛のつもりだろうか。それにしても、かなりリアルにできている。触感もいいな、これ。

 ここは群馬県みなかみ町猿ヶ京に鎮座する神明神社の、急こう配の参道途中にある金精堂。地元の人は「こんこんさま」と呼んでいるらしい。

 関東の金精さまはそのほとんどが男根単独で祀られているが、このようにペアで祀られているのはまさに珍。

 猿ヶ京の近く、国道一七号線の三国トンネル(上越国境)の上の三国峠には、御阪三社神社があって、群馬の赤城、新潟の弥彦、長野の諏訪の三社が祀られているから、諏訪信仰のオオマラさまとオオツビさまの影響でも受けたのだろうか。もっとも、この三社はいずれも金属と関係の深い神社ではある。

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御阪三社神社 鳥居の脚にひびが入り周囲は立ち入り禁止
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              真ん中よりやや下 小さく鳥居が見えるところが三国峠  

 採鉱民はタタラ製鉄を出産にたとえる。

 金精堂のマラとホトも、猿ヶ京一帯で、タタラ製鉄が行われていた証拠ではなかろうか。

 まず猿ヶ京という地名が怪しい。「猿」が付く地名は金属を産出するケースが多い。

 猿ヶ京一帯はかつて宮野と称したという。現在も小字で宮野がある。地名が猿ヶ京に変わった由来は以下の通り。

 ≪有名な戦国武将、上杉謙信。彼が越後から三国峠を越えてこの辺り(当時は宮野と呼ばれていました)にやって来た時のお話。どこまでも広がる大地に立ち、やはり果てなく広がる空を見、この地を治めたいという強い衝動に駆られました。
その夜、謙信は飲酒し、気持ちよく眠りについたところでなんとも奇妙な夢を見ました。
 宴の席でごちそうを口に入れたとたん、前歯がいっきに8本も抜け、手の中に落ちてしまうという夢です。戦の直前にいやな夢を見たと家来に言うと、「片っ端から関八州を手中にするという、縁起の良い夢でございます」とのこと。その日はちょうど庚申の年、申の月、申の日、そしてなんと謙信の生まれ年も申年だったことから、「この地を申ヶ今日と改めるぞ」と、謙信も上機嫌。
 この『申ヶ今日』が訛り、文字も変わって『猿ヶ京』と呼ばれるようになったといわれています。≫(猿ヶ京温泉旅館協同組合のWebより転載。ただし、Webで、≪庚申の年≫とあるべきを≪唐申の年≫とあるのはいただけない。)

 わたし以上の、鉄面皮ともいえるほどの故事付けである。

 しかし、謙信が登場するところがミソだろう。謙信もまた信玄と同様、鵜の目鷹の目金属を狙っていたに違いないからだ。

 そして、陰陽五行説では、十干の庚も十二支の申も、ともに陽の金であり、猿ヶ京と金属との関係を暗示する。

 わたしは、猿ヶ京とは「さびヶ郷」の転ではないかと思う。サビ→サブ→サム→サルではなかろうか。サヒ・サビとは鉄の古語である。

 猿ヶ京温泉の「売り」の一つに赤谷湖がある。売りといってももちろん買い手がいなければ売買は成立しない。おそらく買い手が不在なのだろう、温泉街は閑古鳥も訪れないような有様で、崩落寸前の宿泊施設が点在する。

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                                 赤谷湖

 昔、「崖っぷち犬」というのが話題になったが、ここは「崖っぷち温泉」といえそうだ。赤谷湖は赤谷川を堰き止めたダム湖である。

 赤谷湖は青々としていて、ちっとも赤くない。旅館の従業員に訊いてみても、川は赤くはないという。

 ところが、旅館の床の間に飾られている「赤谷川の石」はまぎれもなく赤かった。残念なことに、写真を撮るのを失念したのは、認知症の兆しでもあろうか。

 それは、赤茶けた砂粒のなかに指先ほどの小石が挟まったような堆積岩であった。

 この辺りの地層を猿ヶ京層群という、と上毛新聞社発行『群馬県百科事典』はいう。

 ≪谷川岳の南、利根郡新治村・水上町・月夜野・沼田市にかけては、かつての海底火山の噴出物であるグリーンタフ(緑色凝灰岩)を大量に含む地層が分布しているが、その上部を猿ヶ京層群という。第三紀中新世中ごろの海に堆積した地層で、赤谷川沿岸地域に広く分布し、三国峠から三国山にかけての高所にも分布する。≫

 猿ヶ京層群の岩質は、下部から、後閑層・赤谷層・原層・合瀬沢層・大道層の五層に細分され、その内の合瀬沢層について、同書は≪礫岩・砂岩および凝灰層よりなる累層。砂鉄層を挟む。≫としている。

 「赤谷川の石」はまさにこの砂鉄層を挟んだ合瀬沢層の石ではなかろうか。

 合瀬は猿ヶ京温泉の西のみなかみ町永井にある小字であるが、永井はナカイで、ナカはヌカの転ではなかろうか。赤谷湖に西から流れ込む川に西川があり、この上流部の沢をムタコ沢という。この変な地名もヌタコ、あるいはヌカコ沢ではあるまいか。ヌカとは砂鉄を指す。永井には、赤沢があり、保戸野山も存在する。

 永井と猿ヶ京に挟まれ南北に細長い大字を吹路という。これは吹く炉か。

 そう考えると、西川というのも、確かに西から流れ込む川ゆえの命名かもしれないが、あるいはもともとはサイ(サヒ)川で、サイの字に西を当てたため、ニシ川になったと考えられないこともない。

 一方赤谷川を北へ遡行して行くと、西から渋沢が合流し、更に北上すると、金山沢と出合う。金山沢は上流部で平標山の家付近から流れ落ちる笹穴沢に分かれる。

 これらの沢名も鉄を想起させ、決定的なのは、金山沢の南西、大源太山から派生する東の尾根上に一六八四mのピーク黒金山があることだ。そしてさらに、その南東に、鷹ノ巣山があることは無視できない。もしかすると、かつてこの山の近くに、鉱山があったのではなかろうか。

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 大源太山は別名を河内沢ノ頭という。カワチはカヌチを連想させる。河内沢は大源太山の西から流れ落ち、新潟県南魚沼郡湯沢町元橋付近で二居川と名を変える。

 この辺りを火打峠というのも興味深いが、元橋という地名にもヨダレが滴り落ちる。

 埼玉県蓮田市馬込字辻谷の共同墓地にある薬師如来像を管理しているのが本橋氏であり、蓮田と岩槻の馬込に多く居住する氏である。

 この氏は、戸田市にも多く、荒川沿いの笹目近くの新曽に顕著である。また戸田市の隣、鋳物の街川口にも多い。

 更に、岩槻に隣接する春日部市大増新田にも多く、大増新田の西隣増冨には小字鍛冶田耕地がある。春日部に「増」の付く地名が多いのには今気づいた。

 さて、話をもとに戻そう。

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猿ヶ京神明神社
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神明神社二の鳥居

 猿ヶ京神明神社は、かつて雨宮神社と称し、宮野に鎮座した。

 二の鳥居近くの説明板にはこうある。

 ≪昔、神明様は、雨宮大明神と称した。清和天皇の後裔、雨宮千勝は文武両道、源頼朝に重用され同僚の妬みをかい、三国峠を越え越後雨宮村に逃れる途中、潔く猿ヶ京の地で割腹した。その時連れの狛犬に手紙を託し、雨宮村の弟の市録に届けた。その後、猿ヶ京では、大疾病が流行ったので、占わせると、雨宮千勝の霊を鎮めよと出たので、天文年間外宮豊受大臣を勧請し雨宮大明神として近隣七か村の鎮守として祀った。明治四十一年に吹路諏訪社、永井十二社、三坂社を合祀し神明神社と改称した。雨宮大明神が葦毛馬から下馬する時、白胡麻の穂で目を突かれたので、猿ヶ京では、葦毛馬を飼うこと、白胡麻を植えることを禁忌としている。≫

 雨宮千勝がどのような人物であるのかはさっぱり不明である。が、しかし、千勝という名は、いやがうえにも、千勝、あるいは近津、千方、血形などと記される神社を思い出させ、さらに、藤原秀郷の子だとも、孫だともいわれる藤原千方を想起させずにはおかない。

 藤原千方は、天智天皇の時代に、伊勢や伊賀地方で、四鬼を使って欲しいままに悪事を働いていたとされる人物で、朝廷から派遣された紀友雄によって、三重県津市白山町を流れる雲出川の瀬戸ヶ淵で討ち取られ、その首は川を逆に流れて上流の美杉村の方へ着いた、という伝説がある。

 謡曲「拾葉抄田村」には≪伊賀の国霧生(きりゅう)村三国ヶ嶽に、千方将軍の籠居の旧跡あり。谷は北面十五間、東西八間、門は北向石柱二本有り。長さ一丈、一本は折れたり。村上天皇御宇藤原千方正二位を望みしに、其甲斐なかりければ、是を逆心し、日吉の神輿を取り奉り、彼は山に取籠もる・・・云々≫とあるそうだ。

 千方氏が、三重県伊賀市霧生にある三国山を根城にして、日吉の神輿を奪ったというのは興味深い。三国山と猿と、雨宮千勝と奇妙な一致をみる。

 思うに、雨宮とは、飴宮のことではなかろうか。飴とは、鏨(たがね)のことをいい、タガネとは、金工や鉱夫が使用する、金属を切ったり、鉱窟を掘るときに使用する金属の鑿(のみ)のことをいう。そして、千勝の勝はカチであり、鍛冶を指しているとも考えられる。

 したがって、雨宮大明神が白胡麻の穂で目を突いたというのは、当然といえば当然の伝承であり、千勝の弟の市録という名からも目が不自由であることが伺われ、雨宮氏が鍛冶氏族であることを示唆していると考えられる。

 そして≪豊受大臣≫とは、もちろん豊受大神、つまり豊受比売のことを指しているのはいうまでもないが、実は、この神もまた鍛冶神であるとわたしは考える。なぜなら、豊受比売を祭神とする神社に、片目伝承が少なからずあるからにほかならない。

 つまり、猿ヶ京は、かつて、鉄の花咲く郷であったにちがいない。


益子

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 栃木県芳賀郡益子町の益子陶器市に行く。

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                      まさに八畳敷き マラは子供よりもでかい

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                            陶器市メインストリート

 初めての土地へ行く場合、あらかじめ机上探索、つまり地図上探索をするのが常である。

 まず益子(ましこ)という地名が気になる。

 「益」は「増」で、島根の益田氏、狭山の増田氏を連想させる。「益」は「沙」でもあり、「沙」には砂鉄淘汰の意味がある。そして沙田(ますだ)が豊田でもあることはすでに書いた通りだが、益子町は豊田氏が非常に多いところでもある。ちなみに『埼玉苗字辞典』には、豊田氏について、≪益子町三十三戸≫とある。

 訊くところによると、同町で最も多い姓氏は大塚ではないかという。「やまに大塚本店」の話では、「地元では、石を投げれば大塚に当る」というそうだ。

 『埼玉苗字辞典』「大塚」の項には、≪大津加は大ノ国(後の百済)の渡来人集落を称す。≫≪益子町百四十戸≫とあり、「益」「豊」の解釈と一致する。

 中心部、益子町益子に道祖土の小字。これをサヤドと読む。旧浦和市にも道祖土(さいど)がある。道祖神は賽の神だから、道祖土と書いて「さいど」と読むわけだ。このサイドが訛ってサヤドということか。サイノカミはサヒの神で、サヒは鉄を意味するから、鉄分の多い益子の土をサヤドというのかもしれない。

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                         煉瓦の歩道 いい色だった

 益子町北東部に大平の大字。オオヒラと読むようだ。大平はダイタイラで、ダイダラに通じ、ダイダラとは、すなわちタタラのことである。

 そういえば、同町益子に太平神社があった。なぜ大平にはなく、益子にあるのか。祭神はニニギのようだ。

 大平がダイダラのことなら、近くにその痕跡、つまり巨人伝説があるはず。お隣芳賀郡茂木町木幡との境界に標高271.7mの芳賀富士、さらに、大平の北隣の大字を芦沼と称す。おそらく芳賀富士はダイダラボッチ製であり、芦沼は足沼であって、芳賀富士を造ったとき付けた足跡に水が溜まってできた沼という伝説があるにちがいない。

 ちなみに、お隣茂木町のモテギについて、『埼玉苗字辞典』の著者茂木和平はこう述べている。

 ≪中国の採鉱書の天工開物に「爐から出た熱鉄を毛鉄と名付ける」とあり。毛鉄(もてつ)はタタラの別称である。木は新羅(しらぎ)・邑楽(おはらぎ)の羅と同じで村・集落の意味。毛鉄木(もてつき)はタタラ集落を指し、茂手木(もてっき)の佳字を用いる。私の茂木を埼玉郡の人から「モテッキさん」と呼ばれている。古代のモテッキはモテキ・モテギに転訛して、茂木の佳字を用いる。後世モギとも称した。≫

 そして、芳賀富士の1.2㎞東を流れる川名は逆川である。尤もこれはサカガワと称するようだが。

 さて、地図上探索をさらに続けると、芦沼の南西隣、大字小宅(おやけ)の小字に勝見沢。これは鍛冶見沢か。その南、大字大沢に小字風戸。これはフットで、つまりホトを指しているのではなかろうか。ホトとは溶鉱炉を意味する。

 それかあらぬか、風戸の北3㎞、同郡市貝町に大字多田羅を発見。その西隣が同町赤羽。これは赤埴(あかはに)でこれも鉄分の多い土を意味するのだろう。

 赤い土、つまり鉄分の多い土の採れるところは、必ずといってよいほど良い鉄も採れる。

 典型的なのは備前だろう。ここは備前焼と刀剣で有名だ。備前焼は伊部焼ともいう。備前市伊部(いんべ)の土を使うからである。伊部とは忌部のことで、『古語拾遺』には、天目一箇命について、≪筑紫・伊勢の両国(ふたくに)の忌部が祖なり。≫とある。

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                          木の葉の色づきもいいね

 ということで予習は完璧。いざ鎌倉と益子町へ向かったものの、なにせ陶器市さ。もう器に夢中で、大平も道祖土もへったくれもあったもんじゃない。陶器市中心部にある観音寺や鹿島神社にも訪れようと考えていたにもかかわらず、全く眼中になかったね。

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        これが陶器! 潜水艦をイメージして作成し始、そのうちわけがわからなくなったと作者
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                     作者いわく 写真掲載して有名にしてくれ と
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                             ノーチラス号かい

 かといって外資みたいに買いまくったわけでもない。あの店、この店にいいのがあったなあと唾をつけ、一通り見てから、帰りに買うぞ、と気合を入れてはみたものの、いざ帰りになると、あれ、あの店どこだったかなあと、ぼけ老人よろしく、まるで思い出せない。やっとよろぼいたどり着いたらすでに売却済みで、わずか数点を買えたのみ。

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                           帰りにはこの皿なかったな
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      これはいついってもあるんじゃないかな それにしても股間部の膨らみ具合はなかなかリアル
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                笠間に窯を持つ山崎さおりのブース 売れちゃって閑散

 寺社探訪もできなければ、器も意に任せず買えなかった。こういうのをアホ鉢取らずというのかね。

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                              旧濱田庄司邸
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                           旧濱田庄司邸の登り窯
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                               窯用の薪
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                              ベンチも益子焼

二つの間々田

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 栃木県小山市に間々田というところがある。

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                              間々田八幡神社

 その地名由来については、間々田八幡神社境内の「間々田八幡宮由緒」に、こう記されている。

 ≪間々田八幡宮の創建は古く、今から約千二百有余年前の天平年間に勧請されたものと伝えられている。天慶二年(九百三十九年)平将門の乱が起るや、朝廷は藤原秀郷等に勅してこれを討たした。秀郷は征討に臨み沿道の神社仏閣に戦勝を祈願し、乱平定の後、当八幡宮に神饌御料として供田した。これより後、里人、飯田(まんまだ)の里と呼称した。
(略)
 徳川幕府、家康の遺骨を日光山に遷し、日光街道十八駅を置く行程三十六里なり。日光・江戸の中間なるをもって間々田と改称した。≫

 確かに、かつて、飯田(いいだ)村が間々田村に隣接してあり、今も北飯田・南飯田の地名は残る、とはいうものの、間々田が飯田(まんまだ)に由来するという説は、まさに噴飯もので、内鼻孔に飯粒が入ったみたいな違和感がある。なぜなら、ご飯のことを「まんま」というのは幼児語だから。タラちゃんが名付けたとでもいうのであろうか。

 したがって、≪日光・江戸の中間なるをもって間々田と改称した≫というに至っては、「儘よ!」と大声を上げたくなる。

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                         段丘崖上よりみる思川氾濫原 乙女付近

 間々田のママという地名の由来は、思川氾濫原東縁の段丘崖にある、と考えられる。

 田國男は『地名の研究』「地名考説」のなかで、眞間(まま)の地名について、≪自分はマゝはアイヌ語の残存だと信じてゐる。それは日本語にてはマゝの原義が説明し能はぬ上、蝦夷語地名解には、

   北見宗谷郡メゝナイ、崩れ川、崩壊をメゝと云ふ。

とある例もあるからである。≫(『定本 田國男集 第二十巻』 筑摩書房)と述べ、ママとは崩壊地のこととしている。

 谷川健一も、『列島縦断地名逍遥』(冨山房インターナショナル)のなかで、こう述べている。

 ≪ママの地名で最も知られているのは勝鹿の真間(千葉県市川市)に住む手児奈の物語である。ママには間々、儘、万々、魔々、真間、圸、墫などの宛字がある。山形では、川が屈曲した部分が川水のため、しだいに欠けていくような所をママニナッテイルとかママカケという。このように元来は洪水などの崩れた所をいう≫

 「田」についていえば、『埼玉苗字辞典』は≪郡県・村・集落の意味≫だとする。

 「田」が水田・陸田のことだけを表しているとは到底思えない。どんな字にでも「田」が付さえすれば、地名になり、姓氏になるという不思議な語である。

 小田治が、『地名を掘る』(新人物往来社)のなかで、≪「油田・炭田」と言い「田」は「鉱山・鉱区」の意なので、農業だけのものでないかもしれない。≫といっているとおりである。

 さて、JR宇都宮線間々田駅から国道四号線、つまり日光街道へ出て、これを北上すると、間もなく曹洞宗天惠山龍昌寺に至る。

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                                龍昌寺

 徳川三代将軍家光の亡骸を日光に運ぶ途中、当山に一夜御宿棺したという寺である。

 ここに間々田宿本陣青木家の墓所がある。

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                              本陣青木家墓所

 「本陣青木家」の真新しい五輪塔が建つ広い墓地はそれのみでガランとしているが、本堂近くにも墓があり、こちらには「青木家先祖累代之霊」と題した、重厚な黒御影石の墓碑板が建っていて、七十人ほどの戒名が刻んである。卒年が一番古いところでは寛文三年とあった。西暦一六六三年だ。どうやら古い墓を整理して、この墓碑板にまとめたようである。

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                     間々田宿本陣跡 奥の家が旧本陣青木家

 間々田の南隣、乙女にある小山市立博物館の職員によると、本陣青木家は思川の水運を利用した廻船問屋で財をなしたという。

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                              乙女八幡神社

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                          乙女八幡神社一の鳥居

 旧乙女村の鎮守八幡神社一の鳥居の説明板にはこうある。

 ≪乙女八幡宮は、鎌倉時代に創建されたと伝えられる。
元禄十六年(一七〇三)に当宮別当寺だった光明寺の住僧舜誉が願主となって建立したこの鳥居には、施主として乙女村の青木主水尉照朝と下館大町(茨城県)の有力商人高嶋忠左衛門勝広、栃木町の石屋三左右衛門らの名が銘文に刻まれている。このことから当宮は、西方の思川沿いに開けた、乙女河岸で活動する商人からも崇敬されていたことがうかがわれる。≫

 どうやら青木氏は、江戸期、間々田一帯で手広く事業を行い、隆盛を極めていたようである。

 ところで、旧大里郡妻沼町(現熊谷市妻沼)にも間々田というところがある。こちらは利根川によるママ地形に因んだ地名と思われる。

 ここに廻船問屋を営んでいた青木氏がいて、かつては名主であったというと、なんだかdéjà vuのようで、船酔いに似た症状になってくる。

 ≪幡羅郡間々田村(妻沼町)成田分限帳の青木甲斐は間々田村住人と云う。青木氏は船問屋を営み、忍藩御用達の焼印あり、「忍藩管轄第二十一区・幡羅郡間々田村名主青木次郎兵衛義明」と見ゆ。≫(『埼玉苗字辞典』)

 グーグルマップで熊谷市間々田を見ると、「ブルーバンブーファーム青木牧場」というのが出てくるから、この青木氏が船問屋青木氏と関係があるかもしれない。

 更に既視感をあおるのは、かつて間々田村を小山川が貫流していたということである。現在この川は間々田の北を流れ利根川に合流している。尤も、小山川はコヤマと呼ぶのが主流のようである。が、しかしオヤマとも称するという。

 小山川は、かつてその中・上流部(深谷市西田の志戸川合流部以西)を身馴(みなれ)川と称した。身馴川の名の由来は、坂上田村麻呂が退治した大蛇の、骨だけが残り、身は川を流れ下ったことによるという。

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                           身馴川 美里町付近

 この伝説も大変興味深いが、身馴川を実熟川とも書いたというのは、耳からよだれがしたたるほどにそそられる話である。

 それかあらぬか、身馴川は秩父郡皆野町金沢字浦山付近に源を発し、志戸川との合流地点まで、明らかにその流れは逆川といった様相なのだ。金沢はいうまでもなく、浦山という地名にも注目すべきだろう。

 それでは、小山川の呼称はなにによるものなのか。それは、わたしが調べた範囲では、どの文献にも載っていなかった。

 話をもとに戻す。

 小山市間々田の廻船問屋青木氏と小山川が流れる熊谷市間々田の廻船問屋青木氏とはなにか関係があるのだろうか。それとも、これは単なる偶然なのか。

 本音をいってしまえば、わたしには、単なる偶然とは思えないのである。それでは、この二つの間々田をつなぐものとはなにかといえば、それは俵藤太、つまり藤原秀郷ではなかろうか。


垂れ幕からだれだれと連想する

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 これは栃木県の小山市役所。

 垂れ幕がまるで鯉のぼりの川渡しに見える。

 真ん中あたりをよく見ると、≪とちぎ元気グルメまつり≫と≪祝 下野新聞KIZUNAスポーツ大賞 初代大賞受賞 萩野公介≫との間隔が不自然に空いているから、少し前まで、ここにも二枚ほど垂れ幕がぶら下がっていた可能性がある。(上の写真撮影一週間後、車で役所前を通過した際には、さらに垂れ幕の数は減り、閑散としていた。決められた掲示期間があるのかもしれない。)

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 右から三つの垂れ幕はいいとして、四つ目の≪祝 本場結城紬 ユネスコ無形文化遺産登録≫はどうだろう。

 結城市は小山市の東隣、茨城県に属する。隣接自治体に祝意を表したということだろうが、それにしても、ユネスコの無形文化遺産登録は二〇一〇年のことである。垂れ幕と書かれた文字の色も若干褪せ気味だ。

 尤も、歴史的に、小山と結城とのつながりは深く長い。現在の結城を根拠としていた結城氏の出自は小山氏で、結城ももとは下野に属していたのではないかと考えられる。ちなみに小山氏は藤原秀郷の後裔を称している。

 その隣の、やはり色褪た≪祝 渡良瀬遊水地ラムサール条約湿地登録≫はどうか。同条約に登録されたのは二〇一二年であり、しかも渡良瀬遊水地のほとんどは下都賀郡藤岡町に属す。小山市に属するのはごく小部分であり、その小部分がつぎの垂れ幕にある≪祝 「環境大臣賞」受賞 下生井小学校≫の下生井である。これは今年の受賞なので、幕も新しい。

 その左、≪とちぎ元気 グルメまつり in那須塩原 祝 優勝 みそ家米ぞう「おやま和牛ステーキ串」 準優勝 小山北桜高校「元祖おやま和牛入りかんぴょうカレーパン」 上位入賞 桑地区わがまち発掘推進協議会「桑の里のうどん」≫

 ≪上位入賞≫とはなんでしょう。それにしても、「元祖おやま和牛入りかんぴょうカレーパン」とはどんなものなんでしょ。まぁ、そりゃ、「元祖」にちがいないでしょう。これって、小山北桜高校で販売しているんかな。

 小山市出身萩野公介選手の今年の活躍はいうまでもなく、三つの堂々とした垂れ幕には文句のつけようがない。

 さて、一つ置いて、≪祝優勝 全国高校総体水泳競技大会 女子100m平泳ぎ 岸 愛弓 選手 宇都宮女子高(小山第二中出身)≫

 この書き方から推測すると、岸選手は小山市の出身ではない様子。わたしは岸氏に興味があるので、ちょいと調べてみると、『埼玉苗字辞典』に≪栃木県小山市百五十戸、栃木市百六十戸。≫とあり、群馬県渋川市よりも多いのは意外だった。とすると、栃木市出身だろうか。

 最後に取り上げる≪祝 海老沼 匡金メダル!世界柔道輝く3連覇≫の≪海老沼匡≫の文字が小さ過ぎる。少なくとも萩野選手並みの大きさが欲しかった。海老沼選手はまちがいなく小山市出身。先に取り上げた下生井の生まれらしい。

 海老沼選手については、二〇一二年のロンドンオリンピック準々決勝で、韓国選手と対戦し、判定の結果、一度は韓国選手に旗が上がったものの、ビデオ判定によりこれが覆されたこと、また二〇一三年の世界選手権決勝では、カザフスタンのムカノフ選手の反則攻撃にも屈することなく、大内刈りで一本勝ちしたことは、今も鮮やかにわたしの記憶に刻み込まれている。

 海老沼という姓は、武蔵国では、ほとんど耳にしない。地名では一か所、さいたま市見沼区東新井の小字に海老沼がある。現在、海老沼小学校にその名が残されている。地形から推測すると、おそらくかつて海老沼という沼が存在したものと考えられる。

 海老沼の南端に、中氷川神社ともいう、中山神社が鎮座し、西に諏訪神社があるのも興味深い。「中山」を称する神社は金属と関係するケースが非常に多い。

 ちなみに、岐阜県不破郡垂井町に鎮座する南宮大社は金山彦を祀るが、またの名を中山神社という。長野県諏訪市の諏訪大社は南宮を称する。

 話をもとに戻すと、海老沼という姓氏は、茨城県古河市から栃木県下都賀郡野木町に入ると突然わっっと出現する。これは誇張ではない。『埼玉苗字辞典』には、≪栃木県下都賀郡藤岡町七十七戸、岩舟町二十六戸、大平町十九戸、野木町二十四戸、小山市百十七戸あり。≫とあるくらいだ。旧郷社である野木神社の神主家は古くから海老沼氏が勤めている。

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                               野木神社

 『栃木県の地名 日本歴史地名大系9』(平凡社)には、野木神社について、こう記されている。

 ≪野木宮ともいわれ、旧郷社。主祭神菟道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと)。配神は気長足姫命・誉田別命・田心姫命・湍津姫命・市杵島姫命。仁徳天皇のとき下野国造奈良別命が、菟道稚郎子命の遺骸を現社地の西方八〇〇メートルほどの台手凾(だいてばこ)に葬り祀ったのが初めという。≫

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                    ホフマン窯改修中(二〇一二年撮影)

 野木神社の旧鎮座地台手凾(台手箱・大手箱)は、野木町煉瓦窯(旧下野煉化製造会社煉瓦窯)付近、いわゆるホフマン窯近くを指す。隣接する渡良瀬北斗乗馬倶楽部の駐車場にその石碑が建っている。この辺りは野木町野木と同町野渡の境界がリアス式海岸のように複雑に入り組むところである。

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                             石碑 「野木神社舊址大手筥」                                                                   
 ここ台手箱には古くから鍛冶集団が居住していたらしく、江戸期に古河に移住し、現在の鍛冶町のもとを築いたという。

 そしてホフマン窯付近から最近製鉄関連の遺構が出たという話を、ある人物から耳にした。その人はこんなこともおっしゃった。

 「台手箱とは大天白のことだろう。」

 脊髄を貫く鋭い指摘である。

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                             大前神社
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                      旧鎮座地 「延喜式内大前神社古蹟」

 ところで、野木町の西隣の藤岡町大前字磯城宮に式内大前神社があり、この境内地から九世紀と推測される製鉄遺跡が発見された。大前神社はもと現在地の北一〇〇メートルほどのところにあったという。ちなみに地元ではオオマエと称するようだが、オオサキともいうらしい。同県真岡市東郷にも式内大前神社があり、こちらはオオサキと称する。祭神はどちらも大国主命。

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                      共同墓地 奥の森が大前神社

 大前神社の西二〇〇mほどのところに小さな共同墓地があり、その墓石の半分を海老沼氏が占めている。そこに建つ墓碑には、≪海老沼家の元祖にして元和元年大崎の御に侍す前代は武士にして不明なり≫と記されている。

 わたしには、どうも海老沼氏はもっと前からここに居住していたのではないか、と思えないでもない。

酔っ払い

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 おとそ気分というと聞こえはいいが、要するに酔っ払いで、年末年始というのは、かれらがその特異な輝きを放つ、打って付けの時期である。

 逆さに置かれたトックリを不思議そうに眺めていた酔っ払い、さも大発見でもあるかのように「おや、このトックリには口がない。」それをひっくり返し、ぎょっとした顔をして「しかも底には穴が開いている。」

 酔っ払いの物の見方はまことにユニークだ。

 間男中に旦那が帰ってきた。しかし、妻は少しも慌てず男に「酔ってるから大丈夫。このままじっとしてベッドに入ってなさい。」
 旦那全く気付かずベッドにもぐりこみ、しばらくして「誰かいる。足が六本ある。」と大声を上げる。「あんた酔っぱらってるのよ。」と女房がいうと「いや確かに足が六本ある。」「じゃ、数えてみなさいな。」亭主起き上がり、ベッドの裾にまわって足を数え「あっ、なるほど四本だ…」といって、再びベッドにもぐりこんだ。

 泥酔すると多くが眠ってしまう。家の中であれば問題ないが、電車の中だとえらいことになる。

 武蔵小金井から通勤している知人が、帰宅の車中、眠ってしまい、目が覚めると、巨大な天狗の面がこちらをにらんでいたので、いっぺんに酔いが醒めたという。
 
 が、上にはもっと上がいて、昔、高崎線に、冬の期間の夜だけ、上野発石打行きというのがあった。いってみれば、スキーヤー向けの夜行列車である。しかし、乗っているのはほとんど通勤客で、スキーヤーなどにお目にかかったことは一度もなかった。桶川へ帰る人がこれに乗り、眠ってしまい、目が覚めると、そこは≪雪国だった。顔の底が青くなった。なんてことがあったという。

 酔うと泣き上戸がいるように、見せ上戸も存在する。自信過剰なのか、それとも単なるワイセツ目的なのか、その辺の事情は本人に訊いてみないとわからない。

 確か、年末の夜の宇都宮線内でのことだった。

 上野駅停車中の電車は出発までまだ十分ほどあり、車内は、席は埋まっているものの、混雑と云うほどでもなく、わたしは開いたドアの隅に立って、見るともなく吊革につかまっている人たちを眺めていたのだが、中に一人、不自然に身体を弓なりにして、腰を突き出している人物に気づいた。男の前に腰を下ろしているのは女性で、眼を閉じ眠っている様子。

 男は白のトレンチコートを羽織っていて、ボタンはかけていないから、それがどうやら衝立代わりになっているらしく、両側からは、コートに隠された部分がどうなっているのか見えない。

 男の格好がなんとも怪しいので、眼を離さず見続けていると、コートの中から、紫色に反り返った巨根が出現した。あまりの大きさに目がダンボ状態。

 男はさらに身体を反らせ女性の顔に押し付けんばかりだ。しかし、彼女は気づいているのか、いないのか、じっと目を閉じたまま微動だにしない。

 やがて乗車する人も増えてきて、男はコートの中にそれを丁寧に折りたたんでしまいこみ、しっかりとボタンをかけてしまった。いや、これは誇張でもなんでもない。折りたたまなければ、決してしまいこめるものではなかった。これでおそらく来年の年末まで御開帳はないのだろう。

 ついでに、どういうわけか、「こたつ」という小話を思い出したので、サービスしておこう。

 ≪村の金持、こたつを作ると、村の者めずらしがり、「隣の与次兵衛どんのところでは、畳を四角に切って四本柱を立てて組み、天上を付けた。あれはなんじゃ。」といって見に来る。あとから行った者、帰ってから「残念な、遅かった。もう布団をかけて見せなんだ。」≫

 そういえば、わたしは、以前、「通勤電車 宇都宮線」シリーズでこんなことを書いていた。

 ≪私は、ある時期からよほどのことがない限り、座席に腰を下ろさないことにしている。その理由については追って話すこともあろうと思うが、目の前の席があこうが、ガラガラに空いていようが、座らない。≫



 ちょうど良い機会なので、なぜ座席に座らなくなったのか、その契機となった目撃談を記して、新年のご挨拶としておこう。

 巨根のつぎが穴のはなしであるのは、いうまでもなかろう。といっても、これは鼻の穴のはなしである。

 わたしは座席に腰を下ろし、本を読んでいた。出発間際に、一人の酔っ払いがわたしの前の吊革に両手でつかまり、ゆらゆら絶え間なく動き始めた。酔っ払いというものはなにをしでかすかわからない。いきなりゲロを吐きかけてくるかもしれない。そう思うと落ち着かず、本を読むのをやめ、男を観察することにした。

 男は、わたしが注視しても全く意に介さないほどに、へべれけに酔っているらしい。やがて片手が吊革を放れると、男は親指で鼻の穴を掻きはじめた。鼻の穴の中が突然わさわさと痒くなることはよくある。しかし、さすがに親指は鼻の穴の中には入らない。酔っ払いは親指をあきらめ、人差し指に変更すると、その第一関節くらいまで指を鼻の中にねじ入れ、くねくねくじり始めた。

 よほど気持ちがよかったのだろう。男は眼を閉じ、実に美味しそうに鼻をほじっている。そのうち、なにを思ったか、さらに指を第二関節付近までこじ入れ、何度かグラインドすると、オルガスムスに達したとでもいうように、指を穴からゆっくり抜いた。

 そこまでは、わたしも笑いをこらえながら、楽しく見物していたのだが、男が抜いた指を見て、状況は一変した。その人差し指の先には、何度嚙んでも嚙みきれなかった肉の筋のような白っぽい物体が、ぞろぞろとぶら下がっていたからである。

 わたしも驚愕したが、酔っ払いも、この鼻くその量には、かなりショックを受けたらしく、一瞬酔いが醒めたように、大きく目を剥いた。しかし、それは須臾のことで、男はまるで周囲を気にすることもなく、早速その鼻くそを指先でこね始めた。

 となると、その後に控えている行動がどんなものか、おおよそ想像がつく。わたしは、一転ひやひやし始めた。

 案の定、男は球形に纏めた丸薬を指先で弾き飛ばそうと試み始めた。いつこちらに向かって飛んでくるか、わたしは気が気でなく、思わず身構えてしまう。

 親指の腹の上に載せた鼻くそ玉を人差し指で弾こうとすると、人差し指にねばりつき、離れない。今度は親指でそれを削ぎ落とそうとするが、再び親指にくっ付いてしまい、堂々巡りはしばらく続いた。

 とうとう酔っ払いも、この群を抜く粘着度の鼻くそには、匙を投げたのだろう。かれはにやにやしながら、吊革の輪の部分にそれをくっ付けると、ちょうど開いたドアからよろよろと下りて行った。

 わたしはこれ以降座席に座ることを躊躇するようになった。もちろん吊革にもつかまることはない。



道鏡と下野国河内郡 (上)

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 JR宇都宮線自治医大駅から東へ延びる道を一〇分ほど行くと、結構な上り坂にさしかかる。その左手に、小奇麗な建物と広い駐車場があり、「医療法人南河内診療所」の表示。お宝鑑定団に安河内眞美がいるから、南河内が姓氏であってもおかしくはない。しかし理事長荒井某とあるから、やはり南河内は地名にちがいない。

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                            下野薬師寺跡 復元された回廊建物
                                                                      下野薬師寺歴史館の職員によると、二〇〇六年に河内郡南河内(かわち)町・下都賀郡国分寺町・同郡石橋町とが合併して下野市になったということで、下野薬師寺跡のある薬師寺は、旧南河内町の大字だったとのこと。

 乾燥した大脳皮質視覚野を尿素一〇パーセントクリームで突然揉みほぐされた感じで、ゆっくりと焦点が合ってくる。

 下野薬師寺跡の東隣に薬師寺八幡宮がある。

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                      薬師寺八幡宮

 ≪薬師寺郷八幡宮由緒略記≫と題された説明板の「由緒沿革」にはこうある。

 ≪人皇五十六代清和天皇の御勅定により東北守護の大神として、京都石清水八幡宮の御分霊を下野仮夷国大内山郷磯坂上朝日ヶ丘に、貞観十七己未歳(西暦八七五年)九月鎮座した。この時より関東北の総社となる。時に小島物部連邦詩朝臣大神主を拝し神主一名、禰宜五名と社家十一、下社家二十三、神戸五十五、神領五五〇町歩を賜る。(以下略)≫

 境内にある別の説明板には≪下野薬師寺の寺内社として直接宇佐八幡宮(大分県)から分社されたともいわれている。≫ともある。

 ≪下野仮夷国≫とは、下毛野国のことだと思われるが、「夷」や「毛」という字は当然蝦夷を想起させ、鎮座地の旧名≪磯坂上朝日ヶ丘≫は、これは多分イソノサカウエアサヒガオカと読むのだろうが、なかなか興味深い地名だ。薬師寺の近くには磯部という地名もあり、これについては後で触れる。

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                               八幡の金精さま                               
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                        奥のでかいのが道鏡さま

 神主に≪小島物部連邦詩朝臣≫とあることから、どうやら神主家(小嶋氏)は物部氏を称しているらしく、境内にあるマラ石の一つを道鏡様と云い慣わしているのは、なにも道鏡に巨根伝説があるからということだけではなく、彼が下野薬師寺に別当として左遷せられ、この地で亡くなっている(下野薬師寺別院を称する生雲山龍興寺には道鏡の墓とされる道鏡塚がある)ということもさりながら、弓削道鏡ともいうように、弓削氏が―――つまり道鏡が物部氏族であったからではなかろうか。

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                        道鏡塚 木々におおわれて円墳がある
                          
 そこであらためて河内の地名にスポットライトが当たることになるわけだ。ここ河内郡一帯はもともと物部がいたところなのではあるまいか。

 道鏡は河内国若江郷、現在の大阪府八尾市の出身で、河内国は古代物部氏の根拠地であった。

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                               弓削神社

 八尾市弓削一丁目にある弓削神社境内の≪弓削神社≫と題する石碑にはこう刻まれている。

 ≪式内社で、祭神は物部氏の祖神である饒速日命、宇麻志麻治命をまつり、物部氏に属した弓削一族の本拠であった。
 孝謙天皇の信頼を得た弓削道鏡は、この地の出身で、由義宮に天皇の行幸を仰ぎ、同宮を「西京」とした。さらに道鏡は弓削一族の栄達をはかったが、天皇の没後は失脚し、下野国薬師寺別当として放遂された。≫

 また≪弓削道鏡≫と題する石碑もあり、以下のように記されている。

 ≪弓削の地は道鏡の出身地である。道鏡は「俗姓は弓削連河内人也」と続紀に記され、若くして葛城山に登り、如意輪法、宿曜秘法を修め、看病禅師として名声を博し、孝謙天皇の病をなおし、信任をえて、ついに法王となった。
 しかし称徳天皇の死去とともに失脚、下野国薬師寺の別当におとされ、宝亀三年(七七二)に没した。
 称徳天皇がこの地に行宮を造られるにあたり、信任の厚い道鏡は弓削宮(由義宮)の造営の許しを得た。≫

 もちろん道鏡が下野に下る以前から河内郡の地名はあった。したがって、河内国出自の道鏡が下野国河内郡で亡くなったのは、おそらく単なる偶然なのかもしれない。が、しかし、偶然だと言い切れないものがないでもない。

道鏡と下野国河内郡 (下)

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 というのは、『日本歴史地名大系 栃木県の地名』(平凡社)に、下野薬師寺には、天平勝宝六年、薬師寺の行信という高僧も配流されており、≪当寺は特別な役割を負う官寺となっていた≫とあるからで、あるいは、道鏡には、蝦夷懐柔のため、物部・蝦夷連合との交渉役としての役割もあったのではないか、と思えないでもないのだ。

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                           復元された別処山古墳 

 そんな想像を煽るのが、下野薬師寺の南五㎞ほどのところ、同市絹板にある別処山古墳という前方後円墳だ。この古墳から≪所在する地域やその規模に比べて特異な副葬品≫(下野市教育委員会)が出土したこともさりながら、別処、つまり別所という地名に、下毛野氏・物部氏・蝦夷の三者を結びつける、接点があるような気がするのである。

 ちなみに、別処山古墳から、小山市高椅の、結城氏埋蔵金伝承のある金山まで、わずか二㎞ほどである。

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                     田川 奥の山は筑波山 磯部の蛇続橋から

 地名といえば、絹板の東隣は小山市大字田川であり、また旧河内郡の中央を貫流する川に田川がある。その川名は小山市の田川という地名に由来するのか、あるいは逆に、田川という川名に由来するのが大字の田川なのか、その辺は不明ではあるものの、九州福岡県にも田川市があり、古代は豊前国田川郡で、香春岳を擁し、物部氏と由縁の深いところなのだ。

 福岡の田川は、往古、高羽とも記され、これが転じてタコウとも読まれたようだが、河内郡上三川町の大字に多功があり、近くを田川が流れている。とすると田川の由来は多功にあるのだろうか。

 ちなみに、田川市の大字に弓削田がある。弓削田一帯も香春岳同様石灰岩質らしく、麻生グループ経営の鉱山が至る所にある。グループの代表は麻生泰(ゆたか)で、兄は財務大臣の麻生太郎だ。麻生氏は鉱山開発で財を蓄えた。麻が鉱物と関係が深いという証拠の一つ。東京の麻布ももとは麻生(あさふ)と書いた。したがって、麻布の地名は、テキスタイルではなく、鉱物との関係で考えるべきだろう。

 弓削田といえば、坂戸市多和目に弓削多醤油がある。日高市高麗本郷の曼珠沙華祭り会場に毎年醤油販売の店を出している。経営者はもちろん弓削多氏であって、わたしが即座に物部を連想してしまうのは、なにもその名ばかりではなく、坂戸の地名が坂戸物部に由来すると考えられるからにほかならない。同市北大塚の古墳上に石上神社が鎮座するのは、偶然とはいいきれないだろう。

 話をもとに戻すと、絹板の北東二㎞ほど、田川の東に磯部という地名があるのも気になる。これは石上(いそのかみ)に由来するものなのか、あるいは、伊勢・伊佐などと同様に海洋民に由来するものなのか。

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                         磯部神社 祭神は木花咲耶姫命

 茂木和平は≪石部(いそべ)、また伊勢部に同じ。海洋民にて、西国では海部と称し、東国では磯部と称す。≫(『埼玉苗字辞典』)と述べ、大宮氷川神社神主家であった磯部氏を採り上げ、系図によると「上野国碓氷郡磯部村より起る。」とあるという。碓氷郡磯部村は現在の安中市磯部である。

 古代、毛野国は上毛野国と下毛野国とに分かれ、これが現在の群馬県と栃木県とになるわけで、JR小山駅とJR新前橋駅とを結ぶ両毛線の名称は、二つの毛野国を結ぶところに由来するのだろう。

 上毛野国、つまり群馬県にも物部氏の痕跡は多く残り、富岡市にある貫前神社は物部氏族磯部氏の創建であるといい、榛名山の中腹に鎮座する榛名神社にも物部の伝承がある。

 そういえば、大宮氷川神社の現在の社家、東角井・西角井・岩井のそれぞれの氏はいずれも物部氏を称している。また、氷川神社鎮座以前からあったと考えられる摂社門客人社(あらはばきしゃ)は蝦夷が祀っていた神だともいわれており、物部氏と蝦夷との関係を暗示する。

 もう一つとっぴな想像を挙げると、小山市の南隣、茨城県の結城という地名も、地元では、木綿(ゆう)木を由来とする、としているが、由義宮の由義、つまり弓削に由来するのではなかろうか。

 ということで、河内郡の河内は物部氏に由来する地名と推測され、道鏡の下野薬師寺左遷は、実は、物部との関係から図られたと考えられないこともないのである。

神鳥谷―――更紗女史へのお応え

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 そうですね、発見の端緒というものは、意外に、身近なところに転がっているものです。

 たとえば、本日(1月6日)の「Yahoo!ニュース」の記事の見出しの一つ。

           ≪一青窈に有名ギタリストの新恋人 ≫ 

 わたしはほとんど芸能関係に興味はなく、この一青窈についても、ほんの一月前に初めて知った次第。その経緯をお話ししましょう。

 最近、わたしが小山市近辺を足繁く訪れているのはお分かりだと思いますが、小山駅から南西へ1キロも行かないところに、神鳥谷というところがあり、当初、カミトヤ・カントリヤとか読むんかな、と高をくくっていたわけです。

 ところが地図ソフトで小山市の地名を調べていると、五十音順に出てくる地名のなかで、この神鳥谷は東山田と平和という地名の間に出てくる。つまり、ハ行で始まる地名ということになる。それで驚いて詳しく調べてみると、ヒトトノヤと読むことがわかりました。こんな読み方をする地名に、なにかイワクがあるのはいうまでもありません。

 神鳥谷は古くはシトトノヤと称していたようです。つまり、神鳥をシトトと読む。

 谷川健一の「一青と黒氏―――巫鳥(しとと)の呼称」から引用します。

 ≪シトトはホオジロ、ホオアカ、アオジ、クロジなどのホオジロ類をひっくるめた呼称である。アオジはアオシトト、クロジはクロシトトのことである。アオシトトがアオヒトトと訛って青一(あおひとと)の漢字が宛てられ、それがさらに一青(ひとつあお)に転じ、それをアオシトトの意味で、ヒトトと読ませたと推考される。もちろん、黒氏はクロジである。≫(『列島縦断地名逍遥』 冨山房インターナショナル)

 石川県鹿島郡中能登町の大字に一青と黒氏が隣接してあり、その北の春木というところに式内社鳥屋比古神社があって、社頭の石碑にはこうあるそうです。

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 ≪主祭神 鳥屋比古神 創立の年代を詳かにしないが、社伝によれば崇神天皇の御宇鎮祭せられたものという。
 祭神鳥屋比古神は国土平定開発の祖神と仰がれる大神で、往古竹津浦鹿島路の湖水に荒ぶる毒蛇が棲息して人民に害毒を及ぼした時これを平定し、その射給うた矢の落ちたところを羽坂と称するに至ったという。而して、社殿後方の鳥屋塚こそは、この蛇身等を埋めたものだと伝えている。≫

 谷川健一は、鳥屋比古神社の御神体は金の鶏といわれるが、一青と黒氏の地名が鳥屋比古神社と関係があるのは疑いない、と記しています。

 また、巫鳥と書いてシトトと読ませ、シトトにミコドリの別称があるのは≪その昔、巫女がシトトの鳴き声で吉凶を占ったからだとされている。≫と述べています。

 『古事記』神武天皇の「皇后選定」に、オホクメノミコトが天皇の求愛の意思をホトタタライススキヒメノミコトに伝えに行くと、ヒメは、オホクメの、周囲に入れ墨をした目を見て不思議に思い、こう歌います。

     あめつつ ちどりましとと など黥(さ)ける利目(とめ)

(アマドリ・ツツドリ・チドリ・シトトドリのように、なぜ入れ墨をして鋭い目にしているのかしら。)

するとオホクメはこう応えます。

     をとめに 直(ただ)に遇はむと わが黥ける利目

(あなたに直接遇うために、入れ墨をした鋭い目にしているんです。)

 おそらく、ヒメもまたこのような入れ墨をしていたのではないでしょうか。だって、ホトタタライススキヒメなんて巫女の名に違いないからです。なんてったってホトタタラですからね。

 ホオジロがなぜミコドリと呼ばれるようになったのかは、おそらくこの鳥の目の周囲から頭部に至る黒っぽい模様が巫女の入れ墨と相似していたからではないかと想像します。

 したがって、神鳥をシトトと読むのは、古代、ホオジロの鳴き声を神託として捉えていたからなんでしょう。

 ちなみに、わたしは小山市の神鳥谷は巫女と関係のある地名ではないかと考えています。その理由はちょっとこの場では書けません。

 さて、さきの谷川健一の記事を読み、「一青」で検索をかけたら、真っ先に出てきたのが一青窈でした。それで、この人物について知った次第。

 ということは、逆に、一青窈から入って、神鳥谷に至る道もまたあったにちがいありません。

 最後に、一青窈の一青は母親の姓で、母親は石川県鹿島郡中能登町一青の出身だそうです。

狭山市堀兼の権現橋 

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 ずいぶん前から権現橋は気にかかっていた。

 一つは、権現とはなにを祀ったものなのか、という点。もう一つは、いわゆる狭山事件で頻出する橋名であったこと。

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 権現の正体は子大権現―――飯能市吾野の子の権現を祀ったもので、脚の神、あるいは下半身の神だという。とすると、子の神はフイゴを交替交替で踏み続ける、いわゆる番子と呼ばれた人々からも信仰されたにちがいない。

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                                 堀兼の井
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                                     堀兼神社

 隣接する赤坂や中福(川越市)という地名を考慮すると、堀兼という地名の由来となった堀兼の井は、水ではなく、金属を産出した堀金の井だったのではないかと推測する。したがって、堀兼の井の隣に祀られている堀兼神社の祭神が鉱山神大山祇命の娘、木花開耶姫命であるのは当然といえば当然。

 狭山事件は、一九六三年狭山市で起こった女子高生殺人事件で、犯人として逮捕された石川一雄は自白するものの、その後一転冤罪を主張。彼が被差別部落出身者であったため、その裁判は狭山差別裁判として問題になった。権現橋の近くには、かつて彼が勤めていたという養豚場があったらしい。

 今は全く当時の面影はないのだろう。橋の周辺はきれいに整備され真新しい家が何軒も建っている。

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                                南入曽山王様

 権現橋から南西へ一㎞ほど行ったところ、同じ不老川に架かる橋で山王橋があり、そのたもとに、庚申塔を山王様(祭神大山咋命)として祀っているが、これなども採鉱冶金と、あるいは被差別部落とも関係があるかもしれない。ちなみに堀兼神社にも合祀神として大山咋命が祀られている。

狼狽

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