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Channel: スネコタンパコの「夏炉冬扇」物語
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魔戸


秋の葉となり落ちにけむ

言い間違い

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 今年も、相変わらずの元旦で、おめでたい話を一席。

 よく知られた言い間違いにこんなのがある。

 見合いの席で、良家のお嬢さんが、相手から「ご趣味は。」と聞かれ、「お琴を少々。」と答えるべきを、「男を少々。」といってしまった。

 フロイトは、≪どんなに簡単に見える言い違いの場合でも、その原因を意識的な心理内容以外の、なかば抑圧された観念による障害に求めることができる。≫(『日常生活の精神病理学』)と述べている。

 そして、その抑圧は、しばしば性的な事象に関連するという。

 フロイトは、同書のなかで、こんな例を挙げている。

≪「最近結婚したばかりのある男がわたしに、後では彼も妻君も大笑いしたという次のような傑作な話をしてくれた。彼の妻君は、自分を娘っぽく見せようということばかり腐心していて、良人の頻繁な性交の要求には不承不承応じていたという。性交を嫌がる妻君の気持ちをまたしても踏みにじってしまった次の日の朝、彼は二人の共同の寝室で髯をそるとき、つい便利なので、それまでにも何度かしたことではあるが、まだ寝ていた妻君の化粧箱の上に置いてあった白粉刷毛を使った。自分の肌の色艶のことを非常に気にしていた妻君は、このことで、それまでにも何度か良人に文句を言っていたが、そのときも機嫌をそこねて、こう叫んだのである。『あなたは、またあなたの刷毛で私をおはたきになるのね』もちろん彼女は、『あなたは、また私の刷毛で、ご自分をおはたきになるのね』と言うつもりであった。良人が笑ったので、彼女は自分の言い違いに気づき、とうとう自分でもおかしくなって、いっしょに笑い出した(『はたく』は、ヴィーン人なら誰でも知っている『性交』の隠語であり、また『刷毛』が男根の象徴であることに疑問の余地はない)」≫

 良家のお嬢さんといえども、良縁とは限らない。

 つい最近聞いた言い間違いにこんなのがある。

 年の暮れもおし迫ったある夕食時、妻が夫にいった。
 「ねえねえ、今日、長年懸案になっていた押し入れのなかを整理していたら、凄いもの発見しちゃった。あなたもきっと驚くと思うわ。食事が終わったら、見てみる?」
 しばらくして、お茶を飲んでいる夫に、妻は、「押し入れから出てきたもの見てみる?」というべきところを、「お尻から出てきたもの見てみる?」といってしまった。
 「お尻から出てきたもの」については、諸説あるとは思うが、いずれにしても夫は、見たいとは思わないのであった。

スネコタンパコの墓場放浪記 その四 金宝山永代寺の墓地 (一)

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                                 永代寺本堂
 
 狭山市柏原(かしわばら)の永代寺については、『新編武蔵風土記稿』に、≪金寶山龍護院と号す。新義真言宗、入間郡勝呂大智寺の末なり。開山正増坊、開基は新田左中将義貞。安永年時祝融の患にかかりて、古器旧記悉く灰滅して、事実詳ならず。≫とあり、本尊は不動の立像で、また院内に虚空蔵の坐像もある、と記されている。

 現在の本尊は虚空蔵菩薩であるから、これがもともとの本尊だったのではないか、といった気がしないでもない。

 それは金宝山龍護院という山・院号から予見され、永代寺の創建者が畠山重忠であるという伝承や、柏原に、いわゆる柏原鍛冶集団が居住していたことなどからも推測できる。

 もっとも、不動明王の姿はタタラに向かう鍛冶師の姿を表し、虚空蔵菩薩は鉱物の存在を象徴しているのかもしれないが。

 『吾妻鏡』「文治五年七月十九日」奥州藤原泰衡討伐軍発向の条、先陣畠山重忠の従軍五騎に、≪長野三郎重清・大串小次郎・本田二郎・榛澤六郎・柏原太郎≫の記述がある。
 
 長野三郎重清は重忠の弟で、長野は行田市長野を、大串次郎は吉見町大串を、本田二郎は旧大里郡川本町本田(現深谷市)を、榛澤六郎は旧大里郡岡部町榛澤(現深谷市)をそれぞれ根拠としており、柏原太郎は当地を根拠としていた武将であったと考えられる。
 
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                           段丘崖下の城山砦跡への入口
 
 西武狭山ニュータウン柏原に接する入間川段丘崖上の字城の越にある城山砦跡がその根城であったといい、彼に従った鍛冶集団が柏原鍛冶の濫觴であって、彼らの後裔の墓所がここ永代寺の墓地に集中しており、神田氏、増田氏、長谷川氏、半貫氏などの墓碑がある。
 
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                   永代寺は段丘崖直下にあり墓は崖上にも造られている
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                           右永代寺本堂 正面奥が段丘崖

 神田氏は鋳物師として栄えたらしく、その作品は、永代寺のすぐ南にある白鬚神社に、天正一八年(一五九〇)から慶長一六年(一六一一)にかけて鋳造された十一面観音の懸仏五面が安置され、永代寺の南五〇〇メートルにある円光寺には、銅造聖観世音菩薩立像が残されている。
 
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                                 柏原白鬚神社
 
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                                 円光寺本堂
 
神田氏の墓所は円光寺にも多い。円光寺は高麗山地蔵院と号し、真言宗智山派、本尊は不動明王だ。

 高麗山の山号は、中世柏原が高麗郡に属したからとも考えられないことはないが、むしろ高麗氏と深いかかわりのあった寺院と考える方が妥当ではあるまいか。

 というのは、柏原鍛冶と高麗氏とは密接なつながりがあったと考えられるからである。

 柏原の鎗鍛冶に新居新左エ門尉という人物がおり、永禄八年(一五六五)、北条氏照から、槍を年に二〇挺ずつ進上するように命じられた文書が残されている。また、柏原鍛冶であった長谷川家に伝わる文書には、≪田波目大がけの城将宿谷氏の臣高麗新節次と言うかたあり≫とあって、新氏は長谷川氏と関係があったらしい。

 ところで、日高市新堀の「高麗神社由緒書」に≪新井・新・神田の三氏あり、伝えて三相家とす。其祖を新井水・新民・神田福と云う。其子孫皆数派となる。≫とあるように、神田・新井(新居)・新(あたらし)の三氏は高麗氏三相家であって、柏原鍛冶関係者にぴたりと一致し、高麗氏と柏原鍛冶とのただならぬ関係が浮かび上がってくるのである。

 とすれば、柏原白鬚神社も当然彼らによって創建されたものにちがいなく、当社や円光寺に神田氏が懸仏や観世音菩像を奉納しているのも理由のないことではないのだ。

 ついでに述べておくと、福岡県福岡市南区にも柏原(かしはら)がある。ここを流れる川に樋井川があるのも興味深いが、この川沿いの柏原・大平寺にかけての一帯から鍛冶遺跡が発掘されている。やはり柏原は鍛冶原の転訛ではなかろうか。そして、この大平寺という地名にもなにか引っかかるものがある。大平はダイタイラであって、あるいは一帯にダイダラボッチ伝説でも残っているのではなかろうか。

 永代寺の北、入間川段丘崖上には、かつて大きな窪地があり、これはダイダラボッチが通ったときにできた足跡だという伝説がある。ダイダラとはタタラのことにほかならない。

 となると、福岡の柏原に羽黒神社や埴安神社があるのもむべなるかなで、その北東二キロメートルほど、同区野多目の照天神社は、『筑前国続風土記』によれば、かつては聖天宮と称していたというではないか。
 

柵の上のクモ

スネコタンパコの墓場放浪記 その四 金宝山永代寺の墓地 (二)

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 増田氏については、『新編武蔵風土記稿』にこうある。

 ≪旧家者庄兵衛 増田を氏とす。先祖増田正金また大水貴先と号して鍛冶を業とす。応永三十二年二月没す。鍛する所の鎗一本その家に伝ふ。身の長さ一尺三寸、忠銘に柏原住人大水と鐫す。それよりして箕裘を継ぐもの四世、今その名を失へり。≫

 鍛冶業は四代続いたが、その後鍛冶はしていなかったらしい。増田氏は一時柏原村の名主を務めたこともあったほどの名家であった。『新編武蔵風土記稿』の執筆者が訪れた当時は、やはり昔鍛冶であった長谷川氏が名主を務めていたようだ。

 永代寺墓地には、増田氏の墓碑は意外に少なく、比較的新しいものが多い。実は、これには理由があって、伝承によれば、増田本家の墓は、もとは永代寺にあったが、寺が無住の時代、上宿に常楽寺を建立し、ここに移したという。

 柏原には、大別すると、上宿(うわじゅく)と下宿(したじゅく)の二区域がある。

 ≪地形大抵平坦にて、村の中程より南に寄て、東西に亘り凡三十餘町の崖ありて、南は一段低く自ら東に漸下せり。≫(『新編武蔵風土記稿』)とあるように、入間川段丘崖上を上宿、その下を下宿と称した。下宿は何度も洪水の被害をこうむってきた。にもかかわらず今もって下宿に住宅や寺社が集中しているのは、入間川がさまざまな恩恵をもたらしてくれたからだろう。
 
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                              入間川 昭代橋から
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                                 柏原常楽寺

 常楽寺は天台宗、沙法山と号し、本尊は木造不動明王坐像。境内の説明板には、≪創建年月は不明ですが、本堂内にある木造十王座像の閻魔王・奪衣婆に天正三年(一五七五)の墨書があるので、それ以前であると思われます。≫とある。また境内に「正傳院 不動尊」の額をかけた小堂があるが、この正傳院とは高麗山聖天院勝楽寺のことだろうか。
http://blogs.yahoo.co.jp/sunekotanpako/36203857.html
 
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                               正傳院 不動尊

 当寺の墓地の多くは増田氏の墓碑で占められており、特に古色を帯びた墓碑列のある一画が増田本家の墓所らしく、そこに「増田正金五百年記念碑」と題した石碑があり、裏面にこう刻されている。
 
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                                増田本家墓所

 ≪増田家元祖大水正金伝云武内宿祢後胤大沢大膳太夫正高三男山田左近将監正国十一代大和郡山住人而俗名伊新之丞世業鎗鍛冶鎗銘曰武州柏原住人大水正金応永三十二年二月廿三日逝去大正十五年三月為満五百年記念建設≫

 これについて、茂木和平は≪奈良県大和郡山市矢田岡本の甲冑工として有名なる明珍家は、武内宿祢八代の孫大口臣の二男増田宇佐麿宗次(大和岡本住、甲冑匠)の子孫増田久寿宗介(京都九条に住す。近衛帝の勅命によりて、鐙、轡を作りて稀なる珍器なりとて明珍の二字を賜る)あり、此の甲冑匠増田氏に附会するか。≫(『埼玉苗字辞典』)と明珍家付会説をとっている。

 明珍家が増田氏であったというのは初めて知ったが、増田氏というのは、やたら鍛冶とかかわりのある氏なのだ。しかし、みながみな明珍家の後裔を自称していたとも思えない。

 同書によると、川口の鋳物師に増田氏があり、天明鋳物師に関わる「真継文書」に≪天明七年、永瀬源内別家永瀬金太郎、川口宿増田金太郎・元は永瀬に有之候。万延二年、川口鋳物師増田惣左衛門・増田金十郎≫などとあるという。

 また比企郡能増村(小川町)には ≪四津山城主増田四郎重富は当村出身にて、古代以来居住の苗字なり。幡羅郡上増田村発祥説は地名附会なり。字都谷文久元年地蔵尊に上能増村増田兵部。明治九年副戸長増田十郎・文政九年生。四津山神社御神燈に「明治二十一年、増田庄十郎。明治三十二年、増田甚三郎。明治四十五年、増田薫佳・増田邦三郎・増田喜市」あり。七戸現存す。≫とあって、とくに鍛冶の記載はないものの、四津山山頂に鎮座する四津山神社については、『埼玉の神社』にこうある。
http://blogs.yahoo.co.jp/sunekotanpako/36500140.html
 
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                                 四津山神社

 ≪村の旧鎮守辺取社は武甕槌命を祀る社であった。現在当社(四津山神社)の主祭神のうちの一柱となっているが、神体が鉄剣であり、当地の古代鍛冶集団とかかわりがあるとされる。四津山の伝承に、当社の南側にある「足っこ沼」は鬼が山に腰かけた時の跡とも、大男の三兄弟が力競ベをした時に踏ん張った跡ともいわれる。こうした巨人伝承は鋳物師集団に語りつがれたとされ、山麓に金山社もあって、それを裏付ける。当社氏子が結成していた古くからの講は、四津山様が火防の加護があるというので、神札と共に火箸を授与していた。当地の信仰的背景には、古代製鉄技術者の信仰があるとも考えられる。≫

 『埼玉の神社』らしからぬ鋭さではないか。

 旧鎮守辺取(へとり)社とは兵執のことで、これはおそらく兵主神を祀った兵主神社のことと思われる。
http://blogs.yahoo.co.jp/sunekotanpako/37030929.html
「足っこ沼」がダイダラボッチ伝承であることはいうまでもなく、四津山神社主祭神カグツチは火神であり、火箸とは、いわゆる鉗(かなはし)のことで、鍛冶場に必須の道具である。近くに鉄鉱石を採掘していた鉱山跡があること、別所地名も残ること、別当明王寺に大久保長安後任の佐渡金山奉行である、鎮目市左衛門が訪れていることはすでに書いた。

 四津山城主増田四郎重富はおそらく鍛冶氏族だろう。
 
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                            教念寺 真下氏墓所
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                            教念寺 本田氏墓所

 更に、増田→マシタ→真下であって、真下というと、柏原太郎の同僚である本田四郎の根拠地旧大里郡川本町本田の教念寺に鍛冶師真下氏の墓所がある。

 こうまで鍛冶とかかわりのある増田とはなにか。『埼玉苗字辞典』はつぎのように述べている。

 ≪増田 マスダ 田は郡県・村の意味。百済人沙族の集落を沙田(ますだ)と称し、増田、益田、升田の佳字を用いる。≫

 沙(ます)についてはこうだ。

 ≪沙 マス 五世紀頃に百済国の支配層八氏の一にて、随書・百済伝に「国中大姓有八族。沙氏、燕氏、氏、真氏、解氏、国氏、木氏、苗氏」と見ゆ。和名抄・安芸国沙田郡は「万須多(ますだ)、今沙・豊に作り、止与太(とよた)と註す」とあり。広島県豊田郡の古名にて、大和朝廷は百済僧を豊国僧と呼んでいた。豊は百済の古名なり。田は百済語の郡県・村の意味。百済人沙族の集落を沙田(ますだ)と称し、升田、益田、増田の佳字を用いる。姓氏録・左京諸蕃に「沙田史、百済国人意保尼王の後より出づる也」と見ゆ。沙田史(ますだのふびと)は朝廷の記録を掌る史部(ふひとべ)にて文人(ふみびと)なり。史職は百済族船史など多くは百済人を用いた。和名抄・陸奥国磐井郡沙沢郷(ますざわ)は今の岩手県藤沢町増沢なり。≫

 これには睾丸を金床の上で鍛えられたような衝撃を受けたね。もっともそんな経験は一度もないが。

スネコタンパコの墓場放浪記 その四 金宝山永代寺の墓地 (三)

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 「沙」が砂や砂漠を意味するのは想像に難くはないが、これを「ます」と読むのは意外である。そこで、大修館書店の『新漢和辞典』を引いてみると、「沙」の⑤にこうある。

 ≪よなげる(よなぐ)。水で洗って悪いものを去る。選び分ける。淘汰する。「沙汰」○沙田(いさごだ・まさごだ・ますだ)≫

 これはつまり、砂鉄淘汰のことではあるまいか。だとすれば、増田氏に鍛冶関係者が多くても不思議はなかろう。藤原秀郷は俵藤太と称したし、俳人の金子兜太なんていう名も、おそらくヤマトタケル伝説がまとわりつく武甲山に因んだ名なのだろうが、金子氏だけにたいそう気になるところだ。

 問題は、『和名抄』の、安芸国沙田郡は万須多(ますだ)というが、今は「沙」を「豊」に作り、止与太(とよた)としていることで、沙田=豊田だということだ。

 「沙」が砂鉄淘汰を意味するのであれば、「いさごだ・まさごだ」というのは砂鉄が豊富な場所であり、当然それは豊田でもあったろう。

 ところで、豊国といえば、古代、朝鮮を指す語であり、また九州にも豊国は存在した。豊前・豊後がその名残で、現在の福岡県東部・大分あたり一帯を指すが、そこは、香春岳を始めとして、鉱物資源が豊富な地域であり、同時に、金達寿が≪豊前というところは秦氏族が全人口の九三パーセント以上を占めていた。≫(『地名の古代史』 河出書房新社)というように、渡来人が多いところでもあった。

 つまり、マスダ・トヨタが渡来人の居住地であるという茂木和平の指摘は正鵠を射ているといっていいだろう。

 柏原の北東四キロメートルほどのところにある川越市豊田本の旧村社は白髭神社であり、東京都日野市豊田にも白髭神社がある。
 
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                        豊田本白髭神社 忘年会の準備中?

 ここで話しは若干脇道にそれる。

 以前、わたしが会社勤めをしていたとき、主要取引先の新任支店長が挨拶に来たことがあった。その人の名は益田といった。わたしは、初対面の方には必ず出身地を訊くことにしていた。すると、支店長は、島根県益田市の出身で、大変に古い家柄だ、と述べた。話を詳しく伺えば、どうやら石見国を領した益田氏の後裔なのだということだった。

 石見国の益田氏はもと御神本(みかもと)氏で、この氏について、『姓氏家系大辞典』(太田亮 角川書店)にはこうある。

 ≪石見の大族にして、藤原姓を称し、関白忠平九代国兼を祖とすと云ふ。御神本系図に「国兼・権大夫、越中守、一に定通。建仁二年三月廿一日石州守護職と為りて下向す。其子安主大夫兼実―越中守兼栄―兼高(益田権介、元名兼経、岩見国押領使、始めて益田と號す)」≫

 系図を鵜呑みにすると、とんでもないことになりかねないが、とにかく御神本兼高のときに初めて益田を称し、銀山で有名な石見国を領したのは確かなことらしい。

 そこで益田市を調べてみると、広島県豊田郡の古名が沙田であったように、実は、益田市にもかつて豊田郷があった。

 『日本歴史地名大系 島根県の地名』によれば、益田市隅村町・本俣賀町・向横田町・横田町にわたる地域を中世豊田郷と称した、とある。明治二二年からは豊田村といい、昭和二七年益田町と合併し、現在に至っている。

 豊田の名は、横田町にある豊田神社にとどまっているくらいだろうか。

 同書によれば、豊田神社は、通称石塔寺大権現といい、祭神は天津大神、多祁阿久豆魂命。社伝によると、孝元天皇の代には、小野の育王山に鎮座していたというから、小野氏創建の神社と考えられないこともない。

 なぜなら、益田の地は往古春日氏によって開かれたところだからである。小野氏は春日氏と同族であり、同じく同族に柿本氏がある。柿本人麻呂は益田川河口沖の鴨山(鴨島)で入水自殺させられたというのが梅原猛の説だ。益田市には、高津町と戸田町にそれぞれ柿本神社があり、人麻呂を祀っている。

 柿本氏の後裔に綾部氏があるが、埼玉県内では、川越市にのみ綾部氏が際立って多いのは偶然だろうか。川越氷川神社には綾部氏が奉斎する人麻呂神社がある。川越綾部氏の墓は同市末広町の曹洞宗青龍山養壽院にあり、一戸建ての家の門以上に立派な門を擁する墓所である。
http://blogs.yahoo.co.jp/sunekotanpako/20768924.html
 
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                      川越綾部氏の墓所 こんなのは初めて見た

 偶然といえば、益田市向横田町の南西が柏原(かしばら)町なのは偶然といえるだろうか。いや、それだけではないのである。狭山市狭山にある田中墓地には、増田氏と豊田氏の墓碑が向かい合って建っているのである。
 
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                       豊田氏墓所 狭山市狭山の田中墓地
 
 豊田氏は、『埼玉苗字辞典』によると、≪島根県鹿足郡日原町二十戸、益田市百八十戸あり。≫とあって、益田市には相当に多い氏である。これは、遠江国内田庄下郷の地頭内田宗茂が、承久の乱の勲功によって、石見国豊田郷の地頭職を任されたことに由来するのかもしれない。内田氏はその後豊田氏を名乗るからである。
 
 そしてどういうわけか内田氏もまた川越市に非常に多い氏なのである。
 
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 狭山豊田氏の古い墓碑に刻まれた家紋が、中国唐代に造られたという貨幣、「開元通寶」であったのにも少なからず驚かされたが、狭山増田氏の家紋が柏原増田氏の家紋と同じ「久」であったことにも興味を覚えた。

 わたしが田中墓地を訪れたとき、たまたま品の良いおばあちゃんが増田氏の墓に花を手向けていたので、どうして増田氏の家紋は「久」なのか訊いてみた。しかし、明確な答えは得られなかった。

 柏原で、かつて「だんご坂」と呼ばれた坂道を探していたときもそうだった。
 
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                           だんご坂 右は永代寺の墓地

 「だんご坂」は永代寺西側の県道二六二号線が上宿へと向う坂道をいうらしいのだが、数人のお年寄りに伺ってもご存知の方はいなかった。

 「だんご坂」の近くで、たまたま通りかかった女性にうかがったところ、おじいちゃんなら知っているかもしれないと、大きな庭を持つ屋敷に案内された。七〇歳ほどのおじいさんに、そこの坂道をなんというか、と尋ねると、北坂だという。子供のころは北坂といった。だんご坂とはいわなかった、というのだ。

 玄関口をちらっと見ると「増田」の表札が読めたので、ついでに増田氏はなぜ「久」を家紋とするのか、伺ってみると、「ここら辺りには、二〇数軒増田の家があるが、≪久≫を家紋とする家ばかりではない。なぜ≪久≫なのかはわからない。」ということであった。

 しかし、わたしにはその理由はうすうすわかっていた。それは島根の益田氏が「久」を家紋とするからではなかろうか。

 益田氏が「久」を家紋とするのは、初代の兼高が、益田に移った年、建久三年(一一九二)に因んで「久」の字を採ったものだというのだが・・・。

 「だんご坂」の名は、ちょうどこの坂を上りつめたところに、昔、だんご屋があったためだという。坂の右側の田んぼのなかに大きな窪地があって、これは昔ダイダラボッチがここを通ったときの足跡だという伝説があることはすでに述べた。

 坂を上りきった右側の窪地といえば、おそらく増田本家があるあたりではなかろうか。

 ついでに、柏原の鎗鍛冶に新居新左エ門尉という人物がいたことはすでに記したが、この新井家に伝わる文書に、柏原鍛冶として豊田・入子の名が掲載されている。すでに述べたように豊田氏の墓所は狭山市狭山の田中にあり、入子氏の墓所は同市下奥富の天台宗広福寺にある。

 また、川越市豊田本には、『新編武蔵風土記稿』に小名として「鍛冶屋山」が載せられているが、明治期に編纂された『武蔵國郡村誌』では、すでにその地名は失われてしまったようで、場所を特定できていない。
 
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                   豊田本薬師堂 境内には倶利伽羅不動の石像もある

 思うに、豊田本の薬師堂がある辺りが鍛冶屋山だったのではなかろうか。この薬師堂には「め」の字が向かい合った絵馬が多数奉納されていたことから、眼病に効験ありとされる薬師だからである。
 
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                              豊田本薬師堂の絵馬
 

烏頭坂

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                         烏頭坂 左の崖上に熊野神社がある
 
 川越市岸町二丁目、熊野神社下の旧川越街道に、烏頭坂と呼ばれる坂道がある。

 市が建てた説明板の内容はこうだ。

 ≪烏頭坂(うとうざか) 旧川越街道を岸町から新宿町二丁目・富士見町へ上る坂道で、往時は杉並木がありうっそうとしていた。新河岸川舟運が盛んな頃は、荷揚げされた荷物を市内の問屋街に運ぶときに必ず通らなければならず、難所として知られていた。川越の地名として古くからあり、文明十八年(一四八六)頃、この地方を遊歴した道興准后(どうこうじゅこう)の『𢌞国雑記』に、「うとふ坂こえて苦しき行末をやすかたとなく鳥の音もかな」という歌がある。≫

 しかし、これでは、まったく説明になってないのではあるまいか。なぜなら、肝心鹿島の要石である、この坂がなぜウトウ坂と名づけられたのか、さっぱりわけがわからないからだ。それに道興准后の歌も理解に苦しむ。

 谷川健一の『列島縦断 地名逍遥』(冨山房インターナショナル)のなかの「善知鳥(うとう)――突出した岬」を読むと、歌の内容は概ね理解できるので、長い引用になるが、ほぼ全文記しておく。

  ≪ウトウはウミスズメ科の海鳥で、東北や北海道の沿岸に生息し、草地に巣を営む。繁殖期には上嘴の付け根に著しい角状の突起が見られることから、アイヌ語のウトウは突起を意味する。そこで鳥もウトウと呼ばれることになったと思われる。

 室町頃に流布された伝承では、猟師は蓑笠をかぶって巣に近づき「ウトウ」と親鳥の鳴声を真似すると、子鳥は「ヤスカタ」と答えてしまう。だから所在がすぐわかって捕らえやすい。子鳥を捕らえるとき、親鳥は空の上から血の涙をふりそそぐ。それが身体にかかると身を傷めるので、猟師は簑笠を脱がない。

 この俗伝をもとに謡曲「善知鳥」は作られた。諸国一見の僧が越中立山の湧泉地獄に苦しむ亡者から、「自分は生前ウトウヤスカタの鳥を殺して生計を立てていた外ヶ浜の猟師だが、𢌞国の砌、陸奥外ヶ浜に行くことがあれば、そこにすむ自分の妻子を訪ねて、罪ほろぼしのために、自分の手許にある蓑笠を手向けてほしい」と頼まれ、僧はその約束を果たすという趣向である。

 陸奥外ヶ浜は、今の青森のあたりであるが、寛永二年(一六二五)に青森の名が起る前は、善知鳥村と称した。葦の生い茂る沼を安潟(やすかた)と呼び、そのまわりに猟師の家がわずかに点在する侘しい漁村であった。いま青森市に安方という地名があり、そこに善知鳥神社がある。先の話は、安潟という地名が存在したことから、ウトウと呼べばヤスカタと答えるという不自然な作り話が生まれたものと思われる。
 
 青森市浅虫にも善知鳥崎がある。そこは海岸に突出した岬であるから、アイヌ語のウトウ(突起)から名付けられたものである。≫

 これで歌の内容はなんとか理解できたとしても、やはり烏頭坂の由来は不明である。

 しかし、上の文の最後の最後にこう書かれているのを見落としてはならない。

 ≪新潟県佐渡島の相川の善知鳥郷をはじめ、善知鳥地名が日本各地にあるが、この場合のウツとかウトは、狭い谷や洞窟を指す地形地名で、それに善知鳥の字が宛てられた場合が少なくない。≫

 それで思い出すのが『新編武蔵風土記稿』に記された≪入間郡岸村≫に関するつぎの一節だ。

 ≪岸村は河越城より辰の方に當り三芳野里と云。江戸より行程十一里に餘り、山田庄に属せり。此村正保中のものには宇戸澤村と書したれば、昔はかく唱へしこと知べけれど、今の如き名となりしは何の頃なりや詳ならず。≫

 実をいうと、わたしがこの地を訪れたのは、岸という地名に興味があったからで、以前書いたように、浦和の岸町は調吉士に由来する地名であって、しかるがゆえに、岸町には調神社が鎮座するわけである。要するに、川越の岸町も吉士一族とかかわりのある地名ではなかろうか、という疑問から訪れた次第であった。
http://blogs.yahoo.co.jp/sunekotanpako/36861120.html

 ところが、『新編武蔵風土記稿』は、正保(一六四四~一六四八)のころ、岸村は宇戸澤村と称した、というのだ。つまり、この記述が正しいとすれば、岸という地名は吉士一族が活躍していたころからあったわけではないということになる。

 わたしの推測はもろくも崩れ去ったが、受領は倒るる所に土掴めで、転んでもただでは起きない。

 わたしの頭のなかで小さく鳴り響いたのは、宇戸澤(うとさわ)のウトとは、烏頭坂のウトであり、谷川健一のいう≪狭い谷や洞窟を指す地形地名≫のことではないか、ということであった。いや、もしかすると、ウトサワとはウトウサカの訛ではなかろうか。つまり、もともとこの辺り一帯の地名がウトウサカだったのではあるまいか。

 『埼玉県地名誌 名義の研究』(韮塚一三郎 北辰図書)は、川越市の「岸」の項で、松尾俊郎の『地名研究』から引用して、「ウトウ坂」という地名について、≪坂の両側が切立って、切通し式の地形を呈するものである。≫としている。

 なるほど烏頭坂は、川越台地の縁にあり、高さ一〇メートルほどの崖を切り通して造られた道であることはまちがいなかろう。

 現在、烏頭坂の東側には、いわゆる川越街道である、国道二五四号線が坂上部の新宿町北交差点で旧川越街道と合流し、その東は、国道一六号線下の崖をぶち貫いて東武東上線が走り、さらにその下をJR川越線が立体交差するという構造になっており、川越台地の開削工事で、烏頭坂が切り通しであった面影はまったく失われてしまっている。
 
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    信号待ちの車列が烏頭坂 左端に東上線 その下をJR川越線 国道一六号にかかる歩道橋から撮影

 しかし、わたしは、切り通し地形だったためではなく、この崖にウトと呼ばれる洞窟がいくつも口を開けていたが故、ウトの坂が訛ってウトウ坂になったものと考える。それはもちろんわたしの勝手な想像ではない。

 明治四三年、この辺りの道路改修工事中に四つの洞窟が発見される。そのときの行政文書には、表題として、「入・仙波区ニ於テ発見セル洞穴ニ関スル件宮内大臣外ヘ上申」とあり、内容は、入間郡仙波区内の道路工事中に発見された四基の洞穴は古墳だと思われるから、発掘品と図面を宮内大臣あてに送ります、というものだ。

 これが記録上の岸町横穴墓群発見の端緒で、その後も、東上線敷設工事、東電の送電線鉄塔建替え工事、マン
ション建設時などにつぎつぎと横穴が発見されることになる。

 岸町横穴墓群については、『埼玉の古墳』(塩野博 さいたま出版会)に≪川越市街地の南部、入間川の支流、不老(としとらず)川に面した標高約二〇メートルの台地の南斜面≫に所在し、横穴墓の数は≪川越市立城南中学校から国道二五四号線の東側約五〇〇メートルの台地斜面に幾つかの支群を形成して、数十基の横穴墓が所在しているものと考えられている。≫とある。
 
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          城南中学校付近の台地斜面 正面のマンション工事の際に横穴墓が発掘されている

 同書によると、横穴の規模は、≪天井の落盤もなく完全に近い状態で発掘≫された六号横穴墓の場合、≪全長七・〇三メートル、墓道四.五メートル≫とあるから、まさに洞窟である。遺物としては、ガラス製小玉、須恵器、甕片、杯片、土師器、土器片などとともに、≪壮年期の男性一体の人骨≫も出土している。

 道興准后がこの辺りを訪れた室町時代、一四八六年ごろには、すでに烏頭坂の名があったわけだから、それ以前の古い時代から、この崖に洞窟、つまりウトが多数あることは確認されていたのだろう。しかし、いつの間にかその存在は忘れ去られ、烏頭坂の名のみ残り、その由来もまた完全に失われてしまった。

 現代になってやっと、その洞窟の正体が横穴墓であることは判明したものの、烏頭坂の地名との間のギャップは未だ埋められてはいない。

 谷川健一は『列島縦断 地名逍遥』の冒頭こう述べている。

 ≪地名は大地に刻まれた百科事典の索引である。地名にはさまざまな学問の切り口があらわれている。歴史、地理、民俗、言語、地質、考古、動物、植物などの学際的な性格を地名は含んでいる。地名にまつわる伝承には古代史を解く鍵がひそんでおり、地名はまた地下に埋もれた遺物、遺跡などの所在を暗示することがしばしばである。≫
 
 わたしが地名にこだわる由縁である。
 
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高尾山金比羅展望台からの眺望

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 これは高尾山金比羅展望台からの眺め。

 筑波山の前の極小ビル群はさいたま新都心。ちょっと意外だったので、家に帰ってから地図を見ると、なるほど筑波山と高尾山とを結ぶ直線上にさいたま新都心はあるんだ。
 
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 これは都心の大ビル群。スカイツリーも見える。

 始め、この大ビル群を見て、わたしは裏妙義の稜線から見た表妙義を連想した。しかし、しばらく眺めているうちに、最近墓場ばかり見ているせいか、意外でもなんでもないのだが、大墓碑群に見えてしかたがなかった。
 
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柏原雑考

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 法事で、山梨県笛吹市石和町今井というところへ行った。この北に唐柏(からかしわ)というところがあり、これが発端となって、あれこれ気ちがいじみた連想が拡大した。

 唐柏の「唐」はおそらく「韓」で、「柏」はカシだから、韓鍛冶を指すのだろうか。あるいは韓楫とも考えられないことはない。近くには笛吹川が流れている。

 韓楫なるものについては、以前いろいろと調べたので、いずれ書くこともあろうかと思う。

 「唐」が「韓」である根拠はまだあって、唐柏の北を広瀬と称するからである。

 広瀬について、『埼玉苗字辞典』にはこうある。

 ≪大和国広瀬郡広瀬村と百済村が明治二十二年合併して百済村(広陵町)となる。応神天皇七年九月紀に「高麗人・百済人・任那人・新羅人、並に来朝(まうけ)り」と見ゆ、平ノ国の渡来人集落なり。≫
 
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                        式内広瀬神社 主祭神は若宇加能売命

 広瀬と云えば、狭山市柏原の西が広瀬で、式内広瀬神社が鎮座し、一帯の数か所から製鉄遺跡が発掘されている。

 「平」について同書は、≪百済・伽耶地方の古名を阿耶(あや)、阿羅(あら)と称す。阿はクマとも称し、阿(くま)ノ国、熊(くま)ノ国、肥(くま)ノ国と云う。肥ノ国は別名を肥(ひ)ノ国、火ノ国、日ノ国と云う。ヒは火神にて鉱山鍛冶神なり。金、即ち鉄(くろがね)の産出する国を火ノ国と云い、王族を始め住民の多くは金(きむ)氏である。国は羅と称し、火羅、日羅、肥羅の渡来人は佳字の平(ひら)を用いる。≫と述べ、≪平ノ国≫とは、百済であるといっている。

 また「平野」の項で、京都府北区平野宮本町の式内平野神社の祭神、今木神・久度神・古開神・比神について、≪今木神は桓武天皇の生母高野新笠姫の祖である百済国王を祀ったもので、久度・古開神はクド・カマドを神格化したもので火神即ち鍛冶神、比神は高野新笠の母方の祖神を祀る。貞観式に「平野久度古開三神」と見え、当初は今木神(平野神)・久度神・古開神の三神を祀っていた。平野神は今木ノ国(後の百済)の神である。≫と記し、百済=今木であるとしている。

 とすると、今井という地名も今木と関係があるんじゃないかと思えてくる。
 
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                                 式内佐久神社

 石和町今井の南を河内(こうち)といい、ここにこの辺りの総鎮守式内佐久神社がある。境内の説明板には以下の記述。

 ≪社記には「昔いちめんに湖水状だったこの地を、岩裂、根裂の両神が水を落として田や畑を興したので、雄略天皇の時、当時開闢の祖神として現地にまつり佐久神社と称した。」とある。≫

 これは、つまり蹴裂伝説で、鉄器使用による農作物の飛躍的な生産増大を象徴していると思われる。
http://blogs.yahoo.co.jp/sunekotanpako/15861030.html

 河内という地名から、わたしの連想は一気に大阪へ飛んだ。河内(かわち)と云えば、八尾市の南が柏原(かしはら)市であったことに思い至った。

 旧柏原村は、今の本郷、今町、大正、古町、堂島町、河原町、清州、上市一帯を指し、明治期に市村新田が合併。その後、堅上(かたかみ)村、堅下村が合併して柏原町となり、さらに国分村が合わさり、柏原市となった。

 旧堅上村は、現在の青谷、雁多尾畑(かりんどおばた)、本堂、峠を、旧堅下村は、法善寺、山ノ井町、平野、大県、太平寺、安堂町、安堂、高井田を指す。
 
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                          式内鐸比古鐸比賣神社一の鳥居

 旧堅下村に平野があるから、『埼玉苗字辞典』が正しければ、この辺りに渡来系の、いわゆる韓鍛冶がいたはずで、それかあらぬか、大県には式内鐸比古鐸比賣(ぬでひこぬでひめ)神社があって、付近から製鉄遺跡が発掘されている。堅上の雁多尾畑には金山彦神社と金山媛神社があり、やはりここからも鉄滓が出ている。

 この堅上・堅下の「堅」という地名は「鍛(かた)す」からきているんじゃないかと考えられる。

 太平寺といえば、九州福岡市南区柏原の隣が大平寺で、そこから鍛冶遺跡が発掘されたことはすでに書いた。

 旧柏原村の村社は白髭神社(現柏原神社)で、これは狭山の柏原も同じ。また柏原神社の南二〇〇メートルに黒田神社があるが、ここにはもともと塩土老翁(しおつちのおじ)を祀る塩殿神社があり、ショウデンさんと呼ばれていたという。そういえば、福岡の柏原北東二キロメートル、同市南区野多目に照天神社があり、『筑前国続風土記』によれば、かつては聖天宮と称していたらしい。

 白髭神社と聖天宮は対になっているとも考えられるから、塩殿とは、おそらく聖天のことではなかろうか。
 
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                           狭山稲荷神社境内社塩竈社
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                               下奥富塩竈大明神
 
 ただ気になることもある。それは、狭山市狭山の田中墓地向にある稲荷神社境内に塩竈社があり、また隣接する同市下奥富にも塩竈大明神が鎮座することである。いうまでもなく塩竈神社の主祭神は塩土老翁神である。
 
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                                  豊栄神社

 ところで、黒田と云えば、深谷市黒田に豊栄(とよさか)神社があって、聖天神と赤口(しゃぐち)神を合せ祀っており、近くに製鉄遺跡がある。

 黒田の黒はクレ、つまり呉のことで、茂木和平は黒田は呉国渡来人の集落のことと述べている。

 堅下の高井田に横穴墓群があるのも興味深い。狭山市のお隣、川越市岸町に横穴墓群があることはすでに書いたが、同市豊田新田にもかつて横穴墓があったことがわかっている。そして豊田本村の村社もまた白髭神社なのである。

 『埼玉苗字辞典』によれば、高井は、高(たか、たかい)が二字の制度により高井になったもので、『新撰姓氏録』「山城国諸蕃」に≪高井造、高麗国王鄒牟王二十世の孫・汝安祁王より出づる也≫とあり、高麗族に多い姓氏だという。つまり、高井田とは、茂木和平風にいうと、高麗族の居住地ということになる。

 わたしは、狭山市柏原の柏原鍛冶と高麗氏との間にただならぬ関係があったと書いたが、大阪の柏原市もまた渡来系の鍛冶、つまり韓鍛冶を抜きにしては語れない土地柄のようである。
http://blogs.yahoo.co.jp/sunekotanpako/38061919.html

諷坂(上)

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                 国道一四〇号線 段丘崖を上る坂道 深谷市瀬山字中里付近
 
 川越市岸町の烏頭坂についてあれこれ考えていたとき、頭のなかで常に並列して意識していたのは、深谷市(旧大里郡川本町)長在家の諷坂(うとうざか)であった。

 結論を先にいってしまうと、諷坂の名が、切り通しであったが故なのか、それとも洞窟に由来するのか、あるいはそれ以外の理由によるものなのか、今のところわたしは決めかねている。

 というのは、地形的に両坂は非常に似通った状況にはあるものの、諷坂の周辺地名や地誌を考え合わせると、なかなか一筋縄ではいかないものが見えてくるからである。

 諷坂については、『川本町地名考』に、こうある。

 ≪諷坂(おとうざか・うたい坂) 東西に横断する国道一四〇号線(秩父往還)は荒川河岸段丘(櫛引扇状台地東南端)の傾斜(ハケ)を堀開して、大字明戸に通じている境界の坂。≫
 
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                            タタラ薬師付近の段丘崖

 この文から推すと、秩父鉄道明戸駅の北を迂回して走る国道一四〇号(秩父往還)が瀬山と長在家との境である段丘崖のピークへと登る坂を指すようであるが、おそらくこの道は新道であって、旧道は明戸駅の南を線路に沿って西へ向かい、国道一四〇号の下をトンネルで抜け、その先で一四〇号線に合流する道ではなかろうか。
 
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                           諷坂から明戸駅方面を見る

 なぜなら、小字諷坂は、菅沼にあり、秩父鉄道の南、(株)福島オーツーの工場がある辺りを称するからである。

 国土地理院発行の二五〇〇〇分の一地形図によると、明戸駅付近の標高は五一メートルで、秩父往還合流点付近のそれは六〇メートルである。

 さて、地図を見ていていやでも気になるのは、小字諷坂の北隣が長在家の小字猿楽であることだ。

 謡曲に「善知鳥」があることは、谷川健一の『列島縦断 地名逍遥』からすでに引用したが、謡曲とは、すなわち能の詞章のことであり、能とは、すなわち猿楽のことである。

 つまり、諷坂と猿楽という地名が隣り合っているのは偶然ではないということだ。

 『川本町地名考』によれば、小字猿楽は、南花林(花林を地元ではハナッペエシというんだそうだ。)に西接する北猿楽と諷坂に南接する南猿楽があり、南猿楽は古名を神楽場といったという。そして、北猿楽には、産泰神社と白山神社があるというのだが、おそらく個人の持ち物なのだろう、あちこち探しまわっても見出せなかった。

 また同書は「産泰」は「三体」に通じるとも述べている。

 『能楽大事典』(筑摩書房)によると、三体とは、世阿弥の用語で、物真似の基本的な風体である老体・女体・軍体を指すという。≪『風姿花伝』では、物真似の風体を九体にわけて述べており、これを老・女・軍に集約し「三体」とする。≫とある。

 そういえば、世阿弥が晩年配流された佐渡の相川はかつて善知鳥郷と称し、その南端下戸村に善知鳥神社があるのは偶然だろうか。しかも善知鳥神社が、神直日(かんなおひ)神、大直日神、八十枉津日(やそまがつひ)神、住吉三神などを祀っているのも、わたしには奇妙な一致と思える。

 なぜなら、八十枉津日神とはマガゴト、つまり悪事をもたらす神で、イザナギが黄泉の国を訪れたときのケガレから生成した神であり、これを祓うために成った神が神直日神と大直日神であるから、これは白山神である菊理姫と似た性格の神といえるのである。

 『川本町地名考』は、諷坂(謡坂)では、そこを通るときに歌を唄うことを忌む、という伝承を念頭に置いて、≪この附近に古代芸能文化の跡がしのばれる。≫と結んでいる。それはそのとおりかもしれない。確かにこの辺り一帯に猿楽師たちが居住していた可能性は高い。

 例を挙げると、東京神田駿河台西の猿楽町は明治五年にできた地名で、≪往時この辺りに猿楽師観世太夫の屋敷があり、座の者も何人か居住していたことから。≫と『日本歴史地名大系 東京都の地名』にある。

 しかし、なにかわたしには引っかかるものがある。それはまず地名である。

 すでに述べたように、猿楽の隣に、花林(はなばやし)という地名がある。花林についてはずいぶん前に書いた(「花林山とはなにか」)。採鉱民は砂鉄を種(たね)といい、タタラ炉で精製された真赤な鉄を花と称すのである。≪みちのく山に黄金花咲く≫の花である。
http://blogs.yahoo.co.jp/sunekotanpako/21491351.html

 何度も取り上げてきた地名に天沼があるが、猿楽の西にこの地名がある。そして、『川本町地名考』によれば前天沼の馬場氏持ちの林のなかに炭鉱の試掘竪鉱があるという。

 ついでにいうと、この辺りから熊谷市大麻生にかけて馬場氏が非常に多い。馬場について、『埼玉苗字辞典』には≪蕃場の佳字に馬場(ばんば)を用いる。蕃(ばん)は渡来人の総称にて蕃(えびす)と称す。姓氏録には渡来人を諸蕃と記す。≫とある。

 馬場氏は新潟県にも多く、金属加工業で有名な三条市はことに多い。ジャイアント馬場もここの生まれだ。

 天沼のアマは飴(あめ)と関係があるとわたしは思う。往古、飴のことをタガネといった。鏨(たがね)とは、金属を切ったり、鉱窟を掘るときに使用する金属の鑿(のみ)のことをいう。

 また長在家の西に中内出という小字がある。内出とは打ち出の小槌の「打ち出」ではなかろうか。中は糠であろう。

 「中」ついでにうと、長在家の東、瀬山の小字に中井、中里がある。ここは段丘崖の下に当り、元は荒川の氾濫原であった。瀬山という地名もサヤマで、これは少間(さやま)池からも想像がつく。少間池には、片目の魚伝説と椀貸伝説とがある。そして狭山市には製鉄遺跡が多い。
http://blogs.yahoo.co.jp/sunekotanpako/36290455.html

 この段丘崖に沿って、北上すると、タタラ薬師と鉄穴の山である観音山に至る。観音山は浸食によってできた残丘である。
 
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                                 石臼稲荷

 長在家に話を戻すと、ここの村社は稲荷神社で、通称石臼稲荷という。『埼玉の神社』によると、≪「稲荷様は五穀の神だから」といって使い古しの石臼を当社に納める習慣≫があるからで、現在三五〇個ほどの石臼が参道に敷き詰められているのだという。
http://blogs.yahoo.co.jp/sunekotanpako/36285325.html

 また同書によると、長在家村は古く長左衛門村といい、江戸時代初期の地頭日根野長左衛門の名にちなみ、石臼稲荷は長左衛門が京都の伏見稲荷大社の分霊を祀ったのが始まりではないかという。

 伏見稲荷大社にフイゴ祭りがあり、鍛冶が斎祀る神であることは何度となく書いてきた。とすると、この石臼も、あるいは鉱石を精錬するための臼だったのではなかろうか。その根拠として、かつて石臼稲荷の近くにスイノウ池、別名を「長たない」「長たねえ」という池があったことを挙げておこう。この「たな」「たね」は砂鉄を指す「種」ではあるまいか。

 もう一つ根拠を挙げると、石臼稲荷の北に共同墓地があり、ほとんど小川氏の墓碑で占められていることである。

 『埼玉苗字辞典』「小川」の項にこうある。

 ≪榛澤郡長在家村(川本町) 当村に此氏多く存す。字下原に鍛冶統領畠山重忠の家臣小川氏屋敷跡あり。二十四石廓の稲荷様は氏神と伝える。当所は有名なる下原鍛冶師の居住地なり。≫

 ≪二十四石廓の稲荷様≫は不明だが、石臼稲荷のことかもしれない。

 神社ついでに、話を猿楽の産泰神社に戻すと、「産泰」の文字から、この神社が安産の神であることはうすうす察しが付く。産泰神社の本宮は、群馬県前橋市下大屋町にあり、祭神は木花佐久夜毘売である。

 下大屋町産泰神社のWebにはこうある。

 ≪天孫邇邇芸命は、笠沙の岬で大変美しい女神に会われ名を尋ねると、大山祇命の娘で木花佐久夜毘売であると名乗りました。
 邇邇芸命に求婚され一夜の契りを結び御懐妊しましたが、邇邇芸命に国津神との不貞を疑われます。佐久夜毘売は「もしこの子が国津神の子なら、無事に産むことは出来ないでしょう。反対に邇邇芸命の御子ならば安産に違いありません。」と、出入り口の無い産屋を造り中に籠られました。やがて出産の時が来ると、内側から火を放ち燃え盛る炎の中で、三神を無事お生みになられ、ご自身も無事であったといいます。≫

 これは「花林山とはなにか」でも話した、いわゆる一夜説話で、一代(ひとよ)とは、すなわちタタラ製鉄の一操業を表し、しかるがゆえに、サクヤヒメは火のなかで出産するのである。採鉱冶金の民がタタラ製鉄を出産とみなすことは何度も述べてきた。金山様にマラが付ものなのも理由がないわけではないのだ。
http://blogs.yahoo.co.jp/sunekotanpako/22315931.html
http://blogs.yahoo.co.jp/sunekotanpako/23793741.html
 
 金山といえば、川本小学校の南に金山という小字があり、ここに田島氏が祀る金山様があるという。

 小字金山は大字菅沼に接しているが、菅沼はスカ沼だろう。スカとは川沿いの砂が溜まりやす場所をいう。つまり砂鉄採集地を指す。須賀神社にスサノウが祀られるのも当然といえば当然なのだ。

 菅沼には、武川駅近くに鋳物師ヶ谷戸という小字があり、秩父鉄道南に小字金山もある。

 キリがないので、ここらでやめるが、これらの小字は荒川の旧河道沿いにあることを記しておく。

 つまり、だらだらと書いてきたのは、長在家一帯は採鉱冶金の民の一大居住地だった、ということだ。

 そして、猿楽師たちも、かれらと活動を共にしていたのではないか、とわたしは考える。

 ちょうど秩父鉄道武川(たけかわ)駅に至ったところなので述べておくと、武川という駅名は、かつてこの地を甲斐武田に仕えていた武川衆(むかわしゅう)が拝領したことによる。

 同様に甲斐武田に仕えていた猿楽師大蔵太夫の息子こそ大久保長安なのである。佐渡ヶ島が二人の猿楽師とかかわりを持ったのは偶然ではなかろう。

 
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トレイルランナー

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         日和田山  二人のトレイルランナー 一人はもう一人の足元をしげしげと見つめている
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                     それもそのはず 左側のランナーは裸足であった
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                           うむ、いい脚しトレイルランナー

和合権現

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                               正面からではよくわからん
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                 横から見ると、なにやら恐竜アパトサウルスの首のようである
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                              はあー、こんなですか
 
 これは山梨県甲府市御岳昇仙峡パノラマ台にある和合権現。

 その由来については、こう書かれている。

 ≪水晶発祥の地として有名な金峰山のふもとに、神の摂理か男女の象徴を合わせ持った樹齢三百五十年を経た楢の木があり、近在の人々から信仰の対象として崇拝されてまいりました。 
 当ロープウエイ開業時(昭和三十九年)地元のご好意により、この御神木を山頂にお移しし、権現様としてお祀りいたしました。時を経て、この権現様は和合権現と呼ばれるようになり、良縁起と幸福の神様として親しまれるようになりました。≫

 昇仙峡には、このほか数ヶ所にこの種の信仰物があるが、元はおそらく、採鉱冶金に因んだ習俗であると思われる。それについては後日書くことにして、今回は、和合権現のお詣り作法について触れておく。

 ≪和合権現お詣り次第≫と題してこんなふうに書かれている。

 ≪一、御神木の左側福銭の前に立つ
   一、臼太鼓を一回だけ鳴らす
   一、御神木に一礼 手を触れてお詣りする
   一、御神木の右側からゆっくりと一周する(願い事を唱えながら…)
   一、御神木を背にして真っ直ぐ30m進み浮富士広場へ…
   一、広場にて富士山に手を合わせ合掌する≫

 ≪御神木の左側福銭の前に立つ≫というのは、賽銭を入れなさいということであり、≪臼太鼓を一回だけ鳴らす≫というのは、神社拝殿に備え付けられている鈴を鳴らすのと同様で、神を覚醒させるということだろう。
 
 正式には、バチではなく、マラで叩くのかもしれない。もちろんそんなことでバチは当たらない。仮に当たったとしても、太鼓でよければいい。

 わからないのは、権現様に願をかけた後、三〇メートル先の富士広場で富士に向って合掌する、という条だ。

 和合と富士とどういう関係があるというのだろうか。

 あれこれ考えてみたが適切な答えが見つからなかった。
 
  強いていえば―――かなり矛盾するが―――こんな歌?があったことを思い出しただけである。

 ≪三国一の富士の山、甲斐で見るより、駿河一番≫

金桜神社とマラ石

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                                御岳八雲神社
 
 和合権現の西、数十メートルに、八雲神社があり、スサノウとクシイナダヒメを祀るが、神体はマラ石である。

 ≪永禄七年三月建立 当地甲斐の国巨摩郡・猪狩村の氏神で古来より石祠内には石棒を安置して祀り、夫婦和合と武運の神として地元猪狩村はもとより近郷・近在の民衆からの信仰は厚く、縁結びの神としても知ら、この地が金桜神社の古い参道の要所であったこともあり、参詣者の休息と道中の安産を祈願した処であります。≫と説明板には記されている。
 
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                            八雲神社ご神体のマラ石
 
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                                 夫婦木神社

 昇仙峡ロープウエイ登り口の近くに夫婦木姫宮というのがある。本宮は金桜神社の下にある夫婦木神社で、こちらの説明板にこうある。

 ≪御祭神イザナギ イザナミ大神 神木夫婦木の由緒 樹木栃
 古来和合繁栄特に縁結び、子授けに霊験あらたな神と信仰され、多くの伝説を持つ。
 周圍十米餘、直径三米、樹体の中心空洞にして男女両性をあらわし夫婦和合の形をなす・・・云々≫

 ここは撮影禁止で、拝観料を取る。わざわざ銭を払ってまで見たいとは思わない。自分のなら、見たいときにいつでも見られる。
 
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                                夫婦木姫宮

 姫宮の方には、イザナギ、イザナミのほかに柿本人麻呂が祀られている。こちらは岩屋のなかに祀られていて、安産の神なのだという。つまり、人麻呂→人産まる、ということらしい。人麻呂は「火止まる」から火防の神にもなり、一丸(ひとまる)から一眼、つまり鍛冶神にもなるが、もともと鍛冶は出産と火とも関係がある。

 夫婦木姫宮の宮司の話よると、金桜神社は、もと甲信国境の金峰山頂にあったのを麓に下したものだという。金峰山北西の尾根上に花崗岩の巨大な一枚岩、大日岩があり、その近くに大水晶窟が今もあるが、場所は極秘事項で、ほんの一握りの人しか知らない、という。どうやら、金桜神社と水晶との関係をにおわせているようだ。

 宮司が水晶に着目したのはいい線いっているとわたしは思う。

 なぜなら、水晶のあるところ、すなわち金を産出するからである。
 
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                                御岳金桜神社

 金桜神社(甲府市御岳町)は、「社記」によれば、金峰山頂の巨石にスクナヒコナを祀り、これを御像石と称えてきたが、ヤマトタケルがこの山に登拝したとき、国家鎮護の霊地としてスサノオとオオナムチを配祀し、御像石の南西に社殿を建立したのが山宮の創建で、その後、雄略天皇一〇年、現在地に里宮の社殿を造営して、山頂の山宮から祭神を遷し、山宮を本宮と改めた。さらに文武天皇二年、大和国金峰山より蔵王権現を勧請し、本宮および里宮に合祀、神仏習合して社名を蔵王権現と改めたという。
 
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                   パノラマ台から見る金峰山五丈岩 最も高いピーク

 御像石は、今は五丈岩といわれており、昇仙峡パノラマ台からも、その花崗岩の顕著なピークは確認できる。

 わたしは、一九九五年八月五日、富士見平キャンプ場にテント泊し、翌日山頂に立ったが、五丈岩のピークにフリーで登った数人のハイカーの内の一人が下りられず、右往左往していたのを今でも鮮やかに憶えている。

 昼飯後早々に下山したので、そのにわかクライマー氏がその後どうなったのかは知る由もない。

 富士見平キャンプ場の下、一キロメートルほどのところに金山平があり、かつて金山千軒といわれ、栄えたという伝承がある。

 『角川日本地名大辞典 19 山梨県』にはこうある。

 ≪「昔、武田氏が甲金を鋳るために数千人の人を送って金鉱を採掘させ、そのため人家が繁盛して金山千軒といわれた」(甲州の伝説)という。付近は信玄が開発したという旧坑が残る。鉱山付近の地質は御岳型黒雲母花崗岩から構成され、坑道にみられる鉱脈は含金ペグマタイト質石英脈であるという。また金山有井館には鉱石を砕くために用いたという石臼がある。≫

 水晶とは石英のことにほかならず、金は石英中に存在する。

 『宇治拾遺物語』に「金峯山薄打事」(これは奈良県吉野町の金峰山)という話があるとおり、金峰山と金とは密接な関係がある。

 御岳金桜神社が金鉱と関係があるのは、少彦名命を主祭神とすることや、金桜神社から北へ金峰山へと向かう道に猫坂というところがあることからも推測できる。ネコとは採鉱冶金の民を指し、かれらが砂金を採る方法を「ネコ流し」という。

 金桜の社名は≪金を以って神となし、桜を以って霊となす≫によるものだというが、サクラ地名は金属と深くかかわりがある。

 例えば、『日本歴史地名大系 滋賀県の地名』(平凡社)は、県内の金屋関連地名として、≪鋳物師、鋳物師釜、鋳物師屋、鋳物師方、芋ヶ谷、イモガノ、イモト、妹路海道、イモラ、イモノホラ、鐘撞、金付、鐘鋳場、鐘釣台、金山、鍋作り、鍋塚、鞴谷、多々良壱、中鞴、金クソ、金久曾、桜本、桜谷、南桜、桜生、桜小場、左倉、桜立≫を掲載しているが、残念なことに、なぜサクラ地名が金属と関係があるのか、その理由は記されていない。

 金桜神社は、金峰山の南東、山梨市牧丘町杣口にもあり、その宮司の≪「金桜とは、金さくり(鑿、探)の意だと思う」≫という説を、小田治は『地名を掘る』(新人物往来社)のなかに掲載している。

 ちなみに吉野裕は、サクラとはアサクラのアが落ちたものという解釈で、なるほどアサもクラも金属と激しく関係する語である。

 ということで、わたしは、和合権現や御岳八雲神社、はたまた夫婦木神社などで祀られているマラやホトが採鉱冶金に因んだものと解釈できると考えている。

 そんなこんなで、先日、地図上で、川越市鴨田に金精稲荷神社というのを見つけたので、ちょいと行ってきた。
 
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              左のご神体に「魂勢大明神」 右の石碑に「金精(以下読めず)」

 旧与野市大戸のオヒジリサマに恐ろしいほど似ていたのでびっくりしたが、そこから北西五〇〇メートルほどのところに、鍛冶屋敷集会所があり、その近くで、眼病にご利益ありといわれる薬師堂と遭遇したのは、まさにツボにはまったといっていいだろう。どうやらこの辺りの小字を鍛冶屋敷と称するらしいのだ。
http://blogs.yahoo.co.jp/sunekotanpako/30425447.html
 
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彼岸の墓地


お引越し

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 引越した・・・といっても、もちろんリアルの話。

 一年以上かけての計画が一昨日完了。

 新居では、WiFiに切り替え、ネット環境は実に快適。

 問題は、オーディオ環境で、二、三年かけて完成したシステムを一旦ばらばらにしてしまったので、これを再構成するのは容易ではない。いっそオーディオもWiFiにしてくれといいたい。いや、最新の事情にはうといので、おそらくすでにオーディオもコードレスになっているんだろうな。あいにくわたしのはもう一〇年も前の代物なのでね。

 しかしながら、荷解きはまだまだこれからで、室内は混乱を極めている。

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 落ち着き次第、ブログを再開する予定。

0123部隊

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 正式名称をエアキャップっていうんだそうだが、いわゆる「ぷちぷち」というやつだね、これをスピーカーに一回だけぐるっと巻いて、ダンボール箱に納めているから、心配になって聞いてみると、≪手荒に扱うわけではないから、これで大丈夫です。≫という。

 確かに、おっしゃるとおりであれば、そうなのかもしれない。ところが、わたしの右スピーカーはめっちゃ手荒な仕打ちを受けたようで、引越し後、二、三日して、ダンボール箱から引っ張り出し、エアキャップを取り去ってみると、正面下部両角がぎざぎざにつぶれてしまっていた。

 メインスピーカーは、ONKYO製で、一本二五㎏ある。おそらくトラックに積み込む直前で落したものと思われる。

 0123部隊は、男性のリーダーと普段は梱包専門だという女性、それにかなり年配の新米アルバイト氏の三人編成で、この指示待ちアルバイト氏の行動を観察すれば、かれが落したであろうことは容易に想像がつく。

 確かに、この時期多忙を極めているのはよくわかる。しかし軒数をこなさんがために品質を落とし、スピーカーを落とし、客の信頼を落としてしまっていいのだろうか。やがて、0123部隊の評価は地に落ち、アリさんのように地表を這いずり回ることになりかねないよ。

 本社に連絡した結果、メーカーでは、すでに生産を終えているため修理はできなというので、アート提携のメンテナンス会社が修理するという。

 試みに、John Coltraneのアルバム「Ballads」の最初の曲 「Say It (Over and Over Again)」を聴いてみる。幸いなことに、音に変化はないようだった。

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 ところで、ダンボール箱からなかみを取り出してはみたものの、混乱状態には、それほど違いはつかまつらないようであった。

 ≪部屋の片付き度と頭の中の整理度はパラレルだ。≫とは精神科医春日武彦氏のことば。とすると、どうやらわたしの精神はかなり危険な状況にあるのではなかろうか。

下老袋東稲荷神社

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 国土地理院の地形図には、川越運動公園の東、川越市下老袋の入間川堤防付近に鳥居のマークがある。しかし、わたしが利用している昭文社の地図ソフトやヤフー、グーグル、駅探の地図にもそれは記載されていない。下老袋氷川神社へ行くついででもあるから、とりあえずこの神社の存否を確かめるため地図をたよりに歩を進めてみる。

 国土地理院の地図は、あくまでも地形図であるから、道路地図や住宅地図とはちがい、住宅街などの細部の表記はかなりいい加減で、記入されている細い道が必ずあるとは限らない。

 まさにこの辺りがそれで、地図と実際の道とがうまく一致せず、そのうち自分が地図上のどの辺にいるのかさっぱりわからなくなったころ、ひょいとこじんまりとした神社に出くわした。社名が書かれていないので、はてなに神社だろうと右往左往していると、杖を突いたおばあちゃんがやって来たので、うまいところへ北野武、さっそく訊いてみると、東稲荷だ、という。なぜ東なのかと問えば、「そりゃ、川越の一番東にあるからじゃないのかい。」と至極明快だ。

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                          東稲荷神社とおばあちゃん

 このあたり、荒川と入間川が並行して南流しているところで、川越市とさいたま市との境は、荒川ではなく、荒川の東の河川敷に大きく入り込んでいる。おそらくそれがかつての荒川の流だったのだろう。

 入間川の流も大きく変化したらしく、今でこそこの川は下老袋の東を流れるが、かつてはその西を流れており、下老袋の西隣、同市鴨田はかつて入間郡に属したが、下老袋は比企郡に含まれた。

 おばあちゃんは、脚を悪くしてからというもの毎日杖を突きつつこのお稲荷さんにお参りしているから、脚の具合もだいぶ良くなってきた、という。そしてこう教えてくれた。

 「この稲荷は関根の家で祀っているものなんだよ。」

 「昔は、この辺みんな関根ばかりだった。今もあそこや、あのちょっと高いところにあるあの家も、あっちも関根だけどね。あの高いところにあるのが本家。」と杖で指し示す。

 もちろんおばあちゃん自身も関根氏であった。

 ちなみに、大阪出身の知人がいうには、関根という姓氏は関西では全く聞いたことがなく、関東ではやたら多いので驚いたということだ。

 彼女は「なか見てきなさい。」というと、拝殿の扉を開けてくれた。なるほどなかに飾られている「幟旗竿改修工事」や「屋根改修工事」などの奉納者名を記載した板はほとんど関根氏の名で占められていた。

 確かに、東稲荷を訪れる前に立ち寄った農民センター隣の墓地も関根氏の墓碑が極めて多かった。

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                        農民センター隣の墓地(玉泉寺跡)

 そろそろ話も尽きようというころ、おばあちゃんはぽつりとこんなことをいった。

 「そうそうお稲荷さんっていうのは火の神さまでもあるんだってね。」

 なぜかおばあちゃんの口から出たのが意外だった。

 「そうなんですよ。よく御存じですね。稲荷神社の総本宮の京都伏見稲荷大社では一一月にフイゴ祭りっていうのがあるんです。鍛冶屋さんのお祭りです。この辺に鍛冶屋やってた人いませんか。」

 するとまたしても意外な応答が。

 「鍛冶屋はしらんけど、鍛冶屋という屋号の家はあるよ、関根の家で。」

 「昔、鍛冶屋だったんでしょうかね。」

 「さあどうだかわからんけど。」

 二〇分ほど話をしただろうか。それから、関根本家の前を通って下老袋氷川神社へ向かった。

 おばあちゃんが、稲荷神が火の神でもある、ということを知っていたという事実は、近年まで、この地区でフイゴ祭りが行われていたか、あるいは伝承として稲荷神が火神であると語られてきたか、いずれにしても近傍での鍛冶の存在が考えられる。

 となると、『埼玉苗字辞典』が、関根氏について、つぎのように述べているのには興味を引かれる。

 ≪関根 セキネ 根、子(ね)は、胡、子(こ)の転訛なり。胡(えびす)、蕃(えびす)は韓半島の渡来人を称す。上野国の大胡村(おおご)、多胡郡(たこ)は大ノ国(韓半島南部)の胡(えびす)族渡来地なり。姓氏録は是等の氏族を諸蕃(しょばん)と記す。渡来人の昔(関)族集落を関根と称す。≫

 そして同書によれば、≪渡来人の昔(関)族≫とは、新羅第四代王昔脱解(しゃくだっかい)の後裔を指し、昔氏はアメノヒボコの後裔にあたる。

 ≪東国通鑑に「昔脱解は、もと多波那国の所生也。其の国は倭国東北一千里に在り」と見ゆ。昔一族を率いた新羅王の王子天日槍(あまのひぼこ)は多波那国に渡来し、丹波国(多波那)より分国した但馬国出石郡(兵庫県出石町)出石川流域に居住し、一族は天日槍命を祀る出石神社(出石町宮内)を奉斎す。後に此地から新羅国へ渡り王となったのが昔脱解である。古代氏族系譜集成に「新羅王家昔氏。次々雄(号檀君)―神乎多―迎烏(号天之日矛、亦曰・花浪神)―天佐凝利命―阿加流日古(移于多波那。多遅麻公祖)、弟の知古(止于韓地)―沙莫(為昔氏)―麻智―烏流―解布曹―脱解(第四代新羅国王)―休鄒―伐休(第九代国王)―伊買―奈解王(第十代国王)―伊?―微伐(応神天皇七年九月帰化。近義首、山田造の祖)」と見ゆ。天日矛は代々の襲名なり。此の一派は武蔵国秩父郡へ移り、秩父縣主となり、其の後裔は鉱山鍛冶師の所領秩父氏へと継承された。昔は関の佳字を用いて、美濃国の関鍛冶は有名なり。東国鋳物師の頭梁は多摩郡谷保村(国立市)の関氏が務めた。≫

 『古代氏族系譜集成』によれば、天之日矛の二代後の阿加流日古は多遅麻公(たじまのきみ)の祖であり、昔脱解の後裔である近義首(こごのおびと)は山田造の祖であるという。

 そういえば、川越市には、南田島と北田島という地名があり、入間郡より高麗郡に亘る五五ヶ村が山田庄を唱えていたというし、同市には今も山田という地名が残る。

 また、『埼玉苗字辞典』はアメノヒボコの一派は秩父氏とつながりがあるというが、確かに河越氏は秩父氏の後裔であった。

 いや、そればかりではない。

 同書は、下老袋の関根氏について、≪当村土豪関根織部は、藤原姓波多野氏流広沢氏(新座郡広沢庄より起る)の名跡を継承して広沢織部を称す。≫と述べている。

 藤原姓波多野氏がいかなる出自を持つ氏か不明ではあるものの、この辺りにだけ藤原鎌足を祀るという神社が二社あるのは偶然だろうか。

 一つは、東稲荷の西九〇〇メートル、鴨田にある中臣大明神で、もう一つは、同稲荷の北西四キロメートルほどのところ、同市石田にある藤宮神社である。ついでにいうと、ちょっと距離は置くものの、同市池辺には鎌足稲荷神社というのもある。池辺は同市豊田本の西隣に位置する。

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                              中臣大明神
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                                藤宮神社
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                             鎌足稲荷神社

 ところで、アメノヒボコは、天日槍、あるいは天之日矛、天日桙などとも書かれ、槍・矛・桙などと記されるホコとは、その形状からして、あらためてことわるまでもなく、マラを象徴すると考えられ、マラとはすなわち鍛冶の象徴でもあるのだが、下老袋氷川神社にはかつて「けつ踊り」という祭りがあったという。

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                             下老袋氷川神社

 ≪中老袋薬師堂にある屋台と下老袋玉泉寺にある屋台が、一五日当社に集まり、ヒッカワセを行く囃子を競うが、けつ踊りはこれに附随して行われる。中老袋は屋台の上に藁で男女を形取った物を前に当てた二人が出て、これを面白おかしく〝オッカワセル〟ものである。下老袋は屋台の上に、尻に籠を着け、これにおかめ、ひょっとこの面をかぶせた二人が上がり、あおむけになり、足に傘と扇面を持ち、〝ケツカワセ〟をして踊るものである。≫(『埼玉の神社』)

 玉泉寺は、今は無く、下老袋農民センターの墓地がその名残である。ヒッカワセ・オッカワセ・ケツカワセなどの「カワセ」とは、おそらく「交せ」であって、つまり男女の交わりをいい、すなわちマラとホトとの関係であって、要するにタタラ製鉄に付随した行事と考えられないこともない。

 そして「交す」は「くなかう」で、道祖神である久那斗神につながり、下老袋氷川神社の摂社脛巾(はばき)社を思い出させる。

 『埼玉の神社』はこの脛巾社についてこう記している。

 ≪脛巾社は古くから社殿は無く、一本の椋の木であり、門のごとく参道に枝を垂れていたが、現在は切株を残すのみである。口碑に、昔ここの神様が、大宮の氷川様と戦争をして敗けて帰った時、脛巾をこの木に掛けたので、脛巾様と称して祀ったという。このため当社の氏子は大宮の十日市に行ってはならないという。≫

 古くからある氷川神社はアラハバキを摂社として祀っているケースが多い。氷川神社総本宮である大宮高鼻氷川神社もしかりで、社殿の東に摂社として門客人社がある。門客人社と書いてアラハバキと読む。氷川神鎮座以前よりあった神である。

 アラハバキとは、脛巾から、脚の神であり、道祖神とも考えられるが、ハバキは羽鞴(はぶき)であって、足で踏み風を起こす道具だから、それで脚の神とも考えられないことはない。要するに、もともとは製鉄神だったのではなかろうか。アラとは、アラガネ――精錬されていない金属――のアラである。

 下老袋氷川神社境内の石碑には、関根氏の名も見られるが、新井、秦、波田野などの姓氏も多かった。

 波田野は『埼玉苗字辞典』のいう≪藤原姓波多野氏≫であり、波田は秦であって、新羅系といわれる秦氏と関係があるんだろう。ついでにいうと、秦氏は、県内では、川越市に多い姓氏で、同市大中居の普門山松寺には秦氏の立派な墓碑が多かった。そういえば、ここには新井氏の墓碑も結構あった。

 道祖神ついでにいえば、関根氏本家が建つ場所はかつて道祖土(さいど)氏の館跡だという。道祖土氏は岩槻太田氏の家臣であった。

龍土大権現 (上)

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                              龍土大権現                   

 もう一ヶ所、国土地理院の地形図にはあるが、昭文社、グーグル、ヤフー、駅探のそれぞれの地図には掲載されていない神社マークが川越市鴨田の鍛冶屋敷集会所北三〇〇メートルほどのところにある。これを龍土大権現という。

 わたしが訪ったときは祭りの真っ最中であった。

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 参列者のなかに交じって神主が祝詞をあげているのを写真に撮っていると、シャッター音に振り返り、ギロっと迷惑そうな顔で睨らむ人物がいる。ちょっと若目の人に、今日はなんの祭りか、と尋ねると、逆に「あんたイチバの人?」と問われ、「違います。」といえば、なにも答えてくれない。集団の中心からちょっと離れたところで見ている若い女性に挨拶をしても、返事がない。なんか敵意むき出しのハリセンボン。

 長い白ヒゲを蓄えた神主の祝詞が済むと、そこに集まった人たちが一人一人順番に拝礼を始めたので、ここはとりあえず引いて、その北西一五〇メートルほどのところにある観音堂へ向かう。

 観明院観音堂の東の道の奥が気になるので、行ってみると、そこは西門集会所で、稲荷神社ともう一社(不明)が祀られている。

 同じ道を龍土権現へと引き返す。すでに祭りは終了したと見え、社前には、神主と関係者と三人しかいない。なんとか神主とコンタクトを取りたいが二人にガードされていて、近寄れない。龍土権現の東隣もまた観音堂で、墓と集会所があり、そこで直会があるのだろう、神主は二人と共に集会所のなかへ消えた。

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                 府川八幡神社の社務所 ポスターの主が原宮司

 実はこの神主この辺りの多くの神社の祭祀を受け持っている有名な宮司で、原將英といい、中臣大明神の額を書いたのもこの人物だ。

 龍土権現を訪れる前に立ち寄った鴨田稲荷神社の氏子に中臣大明神の話を伺っていると、詳しい話は府川の原宮司に訊けということであった。したがって、この白いアゴヒゲのいかにも雰囲気のある神主がもしやその原宮司ではないかと直感したので、なんとか声をかけたかったのだが。

 それに、もしかすると、この原氏は甲斐の原氏と関係があるのではないかという疑問もわいた。

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                         浄土真宗大谷派真行寺

 というのは、府川の近くの宮元町に武田信玄の妹の八重姫が開基だという真行寺があり、ここに姫を守って落ち延びた岩崎氏の墓碑があるのだが、この岩崎氏の後裔が吉見町荒子の岩崎氏だというからである。ところで、吉見町一ツ木の椀箱淵に原氏がかかわっていたことはすでに書いた。一ツ木の原氏は信玄を助けた原大隅の子孫を称している。そして、一ツ木にはかつて鍛冶屋敷という地名もあったのである。

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                              原伏見稲荷神社

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                               岩崎神社         
            
 吉見町といえば、黒岩の横穴墓群上の山に原伏見稲荷を祀ったのは一ツ木の原氏であり、黒岩という地名の由来となった立石にかつて祀られていたのが、現在、伊波以神社に祀られている岩崎神社である。

 しかも、『新編武蔵風土記稿』によると、府川村の名主は代々小沢氏だったという。武川衆の小沢氏と関係があるのではあるまいか。

 話をもとに戻す。

 龍土権現社をカメラに収めて、再び観明院観音堂方向へ、来た道を戻ると、突然垣根越しに「あんたさっきから何度も行ったり来たり、なにしてんだ!」と険悪な調子で呼び止められた。

 「寺社を写してますが。」「ジシャ?」「寺や神社ですよ。」「どっから来た。」「旧大宮市ですが。」「そこに停めてある車はあんたのか。」「いや、わたしは歩きです。」「歩き?大宮から歩いてきたのか。」「いいえ、あそこの運動公園に車を止めて、歩いてきたんです。」「おれは大宮はよく知ってるぞ、大宮のどこだ。」と男はまだ納得がいかないらしく、追及の手を緩めない。「大成三丁目ですよ。昔のいわゆるキャンプ通りご存知ですか?あれが一七号と交差する大成三丁目交差点のすぐ近くですよ。」ここらで一転立場が変わってわたしが攻勢に出た。「あの龍土権現、今日はなんの祭りなんでしょうか。」「うん、祭りだよ。普通の。」「なんという神さまを祀った神社なんでしょう。」「さあ…」「龍土ってくらいですから龍を祀ってるんでしょうか。」「・・・」「あそこに鍛冶屋敷集会所ってありますが、あの辺りにかつて鍛冶でもいたんでしょうか。」「ま、いたんじゃないの、そういう地名なんだから。」「西門集会所に稲荷が祀られていますが、もう一つのお社はなんでしょう。」「諏訪様だよ。」「この辺りを市場というそうですが、その理由は。」「昔、市場があったようだよ。」

 なんだか、クイズ・タイムショックみたいなんでこの辺でやめておく。つまり、大した収穫はなかった。それにしても排他的なところである。こういう待遇を受けたのは初めてであった。




龍土大権現 (中)

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鴨田薬師堂
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                 天台宗星光山一乗院 本尊は長野善光寺と同じく一光三尊阿弥陀如来

  その後、薬師堂、新善光寺を称する星光山一乗院を経て、伊佐沼に出たところで、わたしはしばし伊佐沼について考えた。

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                               伊佐沼
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                         伊佐沼北東部 金気立っている

 この沼については以前にもあれこれ想像をたくましくしたことがあったが、やはり「いさ」という地名は砂鉄と関係があるのではないかという観を改めて強くした。というのは、おそらく伊佐沼は旧入間川が残した沼にちがいないからで、この川の上流、飯能市安須は砂鉄で有名なところだからである。

 『鉄から読む日本の歴史』の著者窪田蔵郎は、飯能市のある加治丘陵の上部地質が第四紀洪積世の豊岡層で、豊岡層は砂鉄の宝庫であると述べている。

 ≪入間砂鉄は他と比し砂鉄総量(T・Fe)が圧倒的に多く、他の原鉱よりも優秀だといえる。鎌倉砂鉄にいたっては問題にならないほど貧弱である。この豊岡層全体が濃厚な含砂鉄層である。≫(「入間砂鉄と特殊製鉄遺跡」)

 県内で、他に「伊佐」の付く地名としては、富士見市勝瀬の小字に伊佐島がある。砂川堀が新河岸川と合流する付近で、勝瀬には鍛冶海戸という小字もあり、近くに榛名神社が鎮座する。

 伊佐島から砂川堀を約三キロメートル遡行した、ふじみ野市市沢に金山橋が架かり、近くに製鉄遺跡である大井東台遺跡がある。

 ついでにいうと、豊岡層の豊岡とは、兵庫県豊岡市の地名から採られたものと思われ、一帯に兵主神社が何社かあるように、ここは天日槍と関係のある土地であって、鉱山が多いところでもある。そして、実は、入間市にも豊岡というところがあり、さらにその西を高倉と称するのは大変興味深い。

 したがって、伊佐沼の近くに眼病に効験ありという薬師堂があり、鍛冶屋敷という地名が残っているのも不思議はなく、新善光寺を謳う寺があるのも無関係とはいえない。

 さて、伊佐沼から向った旧鴨田村鎮守の八幡神社で、龍土大権現にいた宮司と再び遭遇したのは好運であった。しかも、今度はノーガードである。

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                              f鴨田八幡神社

 そこで、わたしは、宮司が原氏であることを確認すると、早速、龍土権現の祭神について尋ねてみた。

 すると、宮司は、祭神は不明だが、神体は馬だ、と教えてくれた。そのときは信じられなかったものの、家に帰ってから、龍土権現の本殿のなかに置かれた鏡を撮った写真を、りドリースコット監督『ブレードランナー』のワンシーンを思い出しつつ、拡大してみたところ、なるほど、その背後に、馬だといわれれば確かにそれらしき物体が安置されているのを発見した。

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                           龍土大権現本殿の鏡
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                                鏡の背後の白馬?

 しかし、これは事実馬なのだろうか。社名どおり、龍だとは考えられないか。つまりこれは、いわば龍から「転訛」した馬なのではなかろうか。

 というのは、『武蔵國郡村誌』は、龍土大権現の祭神を大海積命としているからである。ワタツミの神であるなら龍であってもおかしくはあるまい。

 とすると、龍土とはなにか。それは、あるいは龍燈のことではなかろうか。

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